何も見ていません。
何かを見ているようで、何も見ていません。
そういう状態って、想像できます?
目を開けていれば、必ず何かが目に入ります。
必ず何かを見ています。
しかし、何かを見ていながら、何も見ていないのです。
そこにいながら、そこにいないのです。
物理次元にいながら、物理次元にいないのです。
その時、天国にいます。
地上のこの世界にいません。
天国にいます。
天国は死んでから行く場所ではありません。
今、行く場所です。
天国への招待状を、あなたも持っていますね。
そこへ行ってみましょう。
何もない、その場所に。
…
素晴らしいことです。
何もないって、素晴らしいことです。
全ては目に入っているのに、何もないんですよ?
全てはあるのに、何もないんですよ?
こんなに自由と無抵抗ってあるでしょうか?
生きていると抵抗に遭います。
同僚、家族、友人、恋人、見ず知らずの他人からも。
出る杭は打たれるじゃないけど、そんなに出ていないのに、ガンガン打たれます。
「ひえっ!」と引っ込みます。
打たれないように頭を抱えて縮こまっています。
その抵抗が0です。
外から受ける抵抗が、0です。
外側の何物にも気が向いていない時、真に自分自身の中心に居座る時、外からの抵抗は0です。
無抵抗、真の自由。
何かを見ているようで、何も見ていません。
人はそこに居るようで、誰もいません。
人々の攻撃は、まるで透明人間かのように、通過します。
次元が違うので、交差しないのです。
まったく交差しません。
天国って孤独なのでしょうか?
誰もいない天国は、孤独でしょうか?
満たされているので、孤独ではありません。
他人が孤独を埋めるのではありません。
モノやコトが孤独を埋めるのではありません。
孤独はそもそもありません。
そこは相対の世界ではなく、絶対の世界です。
埋まっていたり、隙間が空いていたりとか、そもそもしない場所です。
何もないに満たされている時、そもそも孤独とかありません。
誰もいないし、何もありません。
それってすなわち、空白で埋まっているのです。
真っ白なキャンバスは、真っ白で埋まっているのです。
それは何も描かれていないという見方をすれば、空白です。空虚です。虚無です。
しかし、見方を180°変えれば、それは空白で埋め尽くされているのです。
空白で隙間なく満たされているのです。
真っ白なキャンバス。
そこには誰もいないし、何もない、だからさびしい。
それは現実世界での見方です。
天国世界での見え方は、そこは白で埋め尽くされています。
白という純真無垢、ピュアで汚れのない真実で隙なく埋め尽くされています。
これが見方の転換です。
180°の転換です。
天国は非常に満たされているのです。この上なく。
…
天国への招待状。
それをあなたも持っていますね。
いつでも行けます、天国に。
24時間、365日やってます。
今、行けます。今。
天国には、誰もいませんし、何もありません。
何もない代わりに、全てがあります。
「あれ」や「これ」はありませんが、全てがあります。
だからもう何もいらないのです。
全てがあれば、もう何もいらないのです。
現実世界に倦み疲れたら、もう行ってしまえばいいのです、天国に。
天国は死んでからいくところではありません。
「今」行くところです。
24時間、365日、いつでもやってます。
天国への招待状はいつでも使えるということを、お忘れなく。
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