真のゴール

人は常に何かを求めています。

地位、名誉、お金、今より良い生活、もっと素敵な経験。

常にゴールをめざして歩み続け、ゴールに達したら次のゴールを目指します。

まるで目の前にぶら下げられたニンジンを、永遠に追いかけているかのようです。

 

さて、本当のゴールがあるとしたら、それはどこでしょうか。

それは、今、ここでしかあり得ませんね。

今、この瞬間、パーフェクトさを認識すること。

それがすなわち、本当のゴールです。

 

何かを目指している状態、それは今の不足を表しています。

今、完全ではないから、欠けている部分、足りない部分があるから、それを補おうとしています。

今、完全を感じていないのです。

 

今、本当にパーフェクトであるなら、それ以上何かを求めることはありません。

何かを求めているということは、まだ完全じゃないという意識があるのです。

 

 

本当のゴール、真のゴールは、今、パーフェクトを感じるということです。

 

 

「今はパーフェクトではないけれど、将来パーフェクトを感じられるように、今頑張る」

その「将来」は、永遠に来ません。

なぜなら、「今」しかないからです。

その「将来」も、来た時には「今」です。

将来という想像をしているのも「今」だし、その将来が実際にやってきて、実際に感じるのも、「今」です。

 

「今」しかないのだから、パーフェクトを感じるのも「今」しかありません。

 

 

「今のこの状態がパーフェクト?」

「とてもそんなふうには見えない」

 

それは、現在の不足に焦点を当てているからです。

不足に目をやれば、不足が認識されます。

パーフェクトさに目をやれば、パーフェクトさが認識されます。

 

つまり、「何を見るか」です。

パーフェクトさが認識できないとすれば、それはパーフェクトさが見えていないということです。

 

「どこにあるの、そんなもの? 全然見えない」

普通の人の目には、世の中はそう写っています。

 

不足、不足、不足。

もっといい生活がある、もっと素晴らしい人生がある、もっと思い通りに生きられるはず。

全然良くないよ、今なんて。

 

あるいは、地位も名誉もお金もいい生活も手に入れた。

かなり満足な生活をしている。

あ~、最高に幸せだ。

そんな人もいます。

 

でもその幸せは、モノやコトに依存しています。

「それがあるから、幸せ」

つまり、それがなかったら、幸せではありません。

 

そして、モノやコトはいつかは滅びます。消えてなくなります。

その時幸せも、消えてなくなります。

 

普通の人生で到達できるのは、「かなり満足」が精いっぱいであり、その「かなり満足」も必ず滅びる運命にあります。

普通の人の人生は、「かなり満足」を頑張って、必死になって、叶えようとするものです。

 

 

しかし、何の努力もなく「パーフェクト」が手に入るとしたらどうでしょう?

それはぜひ手に入れてみたいと思うでしょう。

 

それは実際、「何を見るか」だけです。

努力もヘッタクレもありません。ただ「見る」だけですから。

 

そんなパーフェクトは、「かなり満足」や「まあまあ満足」などとは次元が違います。

普通の人が追い求めている、モノやコトに依存した満足とは、次元が違います。

「見る」とは、何かを得たり何かをしたりすることではありません。

モノやコトに執着していると、手に入れることができません。

 

そういう意味で、大きな損失や深い苦悩を経験して、モノやコトへの執着が薄れた人が、それを得やすい、という構造はあるかもしれません。

 

 

さて、一般的に人はいつも「モノ」や「コト」を見ていますね。

「対象物」を見ています。

実際に目に見えるモノ、手で触れられるモノ、知覚で認識できるモノ、コト。

それらは、浮かんでは消える泡のような存在ですから、永遠に所有することはできません。

生の実態を知る意味

所有という概念すら、浮かんでは消える泡の一種です。

 

そもそも、どこまでいっても「もっといい」の可能性があるそれらが、「完全」ということはあり得ません。

どれだけ手に入れても、どこまでいっても「まだその先」の可能性があり続けます。

必ず相対的な位置づけになるそれらは、どこまでいっても、いつまでたっても「完全」とは言い切れません。

だからこそ「かなり満足」止まりです。

 

すなわち見るべきは、知覚で認識できる「モノやコト」ではない、ということです。

 

 

じゃあ何を見るのか。

その奥にあるものを見るしかありません。

 

楽しいこと、嬉しいこと、悲しいこと、悔しいこと。

素敵な経験、ひと夏の思い出、甘い生活、忘れられない出来事。

 

それら衣の奥にある実体を見るしかありません。

その実体とは何か。

 

 

それは「何でもなさ」です。

 

 

それらは、何でもないからこそ、様々な衣をまとうことができます。

実体は「何か」ではなく、「何」でもないという「何でもなさ」です。

「何か」という衣をまとうことができる「何でもなさ」です。

 

すなわち全ては「何でもない」において、統一されているのです。

世界はフラットです。

 

世界の実体は、アレやコレではなく、「それ」です。

それしかないもの、比較対象がないもの。

すなわちパーフェクトです。

さまざまな衣をまといますが、その実体はパーフェクトです。

 

 

それは目には見えません。手で触れることはできません。

「衣」は、目で見え、手で触れることができます。

しかし、その奥にあるボディは、目で見えないし、手で触れることができません。

 

ではどのようにして、そのボディを知ることができるのか。

 

って、あなたはすでに知っています。

なぜなら、あなた自身がボディだからです。

それは「知る対象物」ではなく、あなた自身です。

 

 

あなたはあなた自身の存在を、どのように知覚しますか?

身体を触ってみる?

記憶をたどってみる?

それらは知覚という対象物であり、衣の一種です。

 

そういう知覚によって自分を確かめるのではなく、それらが何もなくても、「自分がいる」という感覚はありませんか?

名前も、記憶も、身体の感覚も、全てなかったとしても、「自分」という感覚だけはあります。

それは、消えたり無くなったりしますか?

 

例えば、熟睡中は、全ての感覚が消えます。

名前も、記憶も、仕事の悩みも、身体の感覚も、欲望も苦痛も、意識さえも、全てが消えます。

起きている間あなたが「あなた自身」と感じているもの、全てが消えます。

 

その間もそこにあるものはなんでしょう?

全てがない状態のそこに、まだ「ある」ものは、なんでしょう。

それこそが消えることのない、真のあなたではないですか?

 

全てがなかったとしても、まだあるもの。

すなわち、「何でもない」もの。

 

あなたが普段、あなた自身と捉えているのは、その「何でもない」がまとっている衣のほうではないですか?

名前も、記憶も、仕事の悩みも、身体の感覚も、欲望も苦痛も、意識さえも、その何でもないがまとっている衣です。

 

それは知覚では捉えることはできません。

熟睡中に知覚が働くことはありませんが、それでも確かにそれは「あり」ます。

あるからこそ、あなたはあなたであり続けています。

 

何でしょう、それは。

それがあなたの実体です。そして世界の実体です。

 

 

この何でもなさは「何」とは言えませんね。

「何」と言えるような何かでは、全然ありません。

「何」と言えるような何かの奥に、この「何」とは言えない存在がある。

 

目で見えない、手で触れられない、知覚できない。

そりゃあ世のほとんどの人が見逃すはずです。

そして目で見え、手で触れられて、知覚できるものを追いかけてしまうのも、当たり前です。

 

しかしその幻影。

 

目で見え、手で触れられて、知覚できる「具体的」なものほど幻影で、目で見えない、手で触れられない、知覚できない「何でもないもの」のほうが実体であると、経験を重ねるとわかってきます。

具体的なものは泡と同じで、浮かんでは消えるものです。

その奥にある実体は、永遠に消えることはありません。

 

手痛い失敗、取り返しのつかない事態、大きな損失、苦悩、この世の終わりだという経験。

そういう経験が、そういった具体性のはかなさ、幻影性を教えてくれることがあります。

苦しみの意味

 

もちろん、そういう経験がなくても、具体性の空しさに自ずから気付く場合もあります。

 

いずれにしろ、事実は見ればわかります。

ただ単に、ただ正直に事実を見れば、それはいつでもそうなっています。

事実を明らかにしましょう

 

幻影から目覚めるというのは、ごく自然の流れです。

酔いも必ず、いつかは醒めます。

「普通」は普通じゃない!

 

 

真のゴール、今パーフェクトを感じることは、文字通り、今この場で達成可能です。

というか、今この場以外で達成できません。(笑)

 

今、何を見、何を感じていますか。

 

不足を感じ、何とかしなくちゃという思いに駆られていますか。

完璧さを見、その完璧さに安住していますか。

 

自覚的にしろ、無自覚にしろ、選択は、行われています。

コメント

  1. ユウ より:

    今、ここに、全てがある。私自身が全てである。

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