生の実態を知る意味

前回の続き)

生の実態は、我々が今までそう思ってきたものと、まるで違いました。

生は何かを成し遂げなきゃいけないわけでも、何者かにならなきゃいけないわけでもありません。

生は何かを「やる」ようなものではありませんでした。

それは、何かが起こる「場」でした。

あなたが何か「起こした」と思っているものも、実際は「起こしたという解釈」が起こっているだけです。

 

あなたが買ったから、その車が手に入ったのではなく、買うという行為があなたにおいて起こったのです。

なぜ買いたいという衝動があなたに起こり、そして実際に買うという行動があなたに起こったのかは謎です。

その車は、人類全員が買うわけではありません。

買いたいという衝動が起こる人と起こらない人、そして買うという出来事が起こる人と、起こらない人がいます。

なぜあなたにおいてその出来事が起こるのかは謎です。

 

なぜ山は噴火するのか、なぜ地震は起こるのか、なぜ交通事故は起こり、なぜ赤ちゃんは生まれ、なぜ人は死ぬのか。

その原因を細かく辿ったところで無意味です。

それらの解釈も、ただあなたの頭の中において「起こった」ことなのですから。

把握できることは全て「起こった」ことです。

 

 

「それは、ある出来事を『やった』とみなすか『起こった』とみなすかの解釈の違いではないか?」

「地震は確かに『起こった』という感じがするが、車を買うは自分が『やった』という感じがする」

普通はそう思いますね。

しかし、仔細に見ると行為の主体が見当たらないのです。

 

車を買いたいという衝動は、その人が「そうした」というよりも、どこからともなくやってくるものです。

そして、その衝動に従って買ったならば、自分が買ったという気がするかもしれませんが、それは実際には「買いたいという衝動が買うという出来事を引き起こした」です。

そしてその出来事を引き起こした衝動は、どこからともなくやってきたものです。

どこにもあなたがいません。(笑)

 

あなたはただ、自分という知覚の場に、衝動がやってくるのを知覚し、その衝動が引き起こす様を知覚し、その結果を知覚しているだけではありませんか。

あなたは何も手を下していないのではないですか。

あなたという知覚のフィールドで起こる様を、ただ知覚し、ただ認識しているだけではありませんか?

自分という知覚フィールドにおいて展開する知覚として、それは火山の噴火や小鳥のさえずりと同列なのではないですか?

 

 

まあ、言葉にするという時点で、ひとつの解釈です。

言葉にするという時点で「認識できるもの化」をしています。

ですから、ここにある言葉を信じるのではなく、実際にあなた自身の経験を調べてみてください。

 

 

生の実態を知ることに、どんな意味があるのか。

別に今までどおり、思い込みと妄想のなかで生きていても問題ないじゃない。

 

はい、思い込みと妄想のなかで生きていて問題ない人には、意味の無いことですね。

しかし、思い込みと妄想のなかで生きていて問題ある人には、意味があります。

その思い込みと妄想がウソだったとわかるわけですから。

 

 

現れては消える認識物。

それは海に現れる波のようです。

あなたという海の中で、様々に起こる波。

それはただそうだというだけです。

 

波はただ起こって、消えていきます。延々。ただ延々と。

「楽しさ」は、その波の一形態です。

「苦しさ」もまた、その波の一形態です。

全ては波の一形態という意味において、同列です。

そして、あなたは波じゃなくて「海」です。

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