思考は「どうすればどうなる」式の考え方をします。
こうしたから→こうなる。
というふうに。
しかし真実は「見る」ものであって、「する」ものではありません。
何かをすることによって「到達」「達成」するものではないのです。
真実はただ真実であって、我々はただそれを「見る」だけです。
そこにパンケーキがあったなら、思考は「どうやって食べればいいのか」とか「賞味期限はいつかな」とか、いろいろなことを考えますが、事実はただそこにパンケーキがあるだけです。
あまりにも何でもないのです。
そして思考は、そのあまりの「何でもなさ」に抵抗します。
その空しさに抵抗します。
満たしたいのです。
思考・妄想は、自分を何か素晴らしいもので満たしたいのです。
「つまらない」「退屈」「無力」はイヤだ、「素晴らしいもの」「気持ちがいいもの」「おいしいもの」で満たしたいのです。
しかしそういった「欲求」というものは、実に勝手に生まれて、勝手に悶々として、勝手に満たそうとしたり、満たされなくて苦しんだりします。
そう「勝手に」です。
勝手にあなたの中でそういう欲求が生まれて、勝手にわいわいやっているのです。
それが「見え」ますか?
その勝手にやってる様を眺めることはできますか?
それが「見る」ということです。
見て、それが「空しい」と思うのは、誰が思うのでしょうか。
そう、「思考」です。
思考がなければ、空しいもヘッタクレもありません。それはただそれなだけです。
ただのそれにいろいろとイチャモンをつけるのは、思考です。
ただのそれであって欲しくない、もっと素晴らしいもの、もっと素敵なものであって欲しいと思うのが、思考です。
しかし「ただのそれ」は、あなたのそんな要求に応えてはくれません。
だってそれはただそれでしかないのですから。
そこで葛藤が起こります。
ああであって欲しい、こうであって欲しい、しかしそれはあくまでただのそれなもんだから「どうなってんだオイ!」と。
それは、石に向かってケンカを売るような、正気の沙汰とは思えないことです。
電柱に向かって「オイ、テメー!コノヤロー!」とケンカを売っている酔っ払いと全く変わりありません。
驚きました。
我々が「普通」と思っていることは、実に酔っ払いのおかしな行動と何ら変わりがなかったのです。
自分の人生をつかまえて「なんてひどい人生だ」と嘆くのは、石ころをつかまえて「なんでおまえはパンケーキじゃないんだ」と嘆くのと一緒です。
実に我々の普段の生活が、いかに正気の沙汰じゃないかに気付いてみてください。
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