全体を見る姿勢

ものごとを理解するために必要なのは、「全体像を見る」ということです。

 

例えば絵画を見るとき、本来は雄大な風景の絵だったとしても、そのごく一部しか見ていないと、「これは葉っぱの絵だ」ということになります。

景色の中のごく一部を構成する木の、そのまたごく一部を構成する葉っぱ。

 

確かにそこだけを見ると葉っぱの絵と言えますが、本来全体は風景の絵です。

そして、「葉っぱの絵」と「風景の絵」は、全然違って見えます。

そういう勘違いが起こっているのが、我々の人生と言えます。

 

ごく小さな出来事の、そのまたごく小さな一部分だけに着目する。

そういう近視眼的な有様が、一般的な我々の人生です。

 

視点を引くと、全体像が見えます。

 

そのためには、一点に集中しないことです。

一点に集中するということが、すなわち「葉っぱを見る」ということです。

葉っぱという一点に集中するのではなく、全体を見るためには、一点集中の逆の作用が必要です。

脱力し、考えに囚われないで、フワッと全体を見る。

 

一点には集中しませんが、全体には集中します。

見る、という作用と、そのための集中は、もちろん必要です。

 

考え事をしていて、友人とすれ違ったことにも気づかなかった、ということがあるかもしれませんが、その場合は頭の中の考えに集中しすぎて、他が見えなくなっている状態です。

そうではなく、全てを見ている、全てに気づいている。

何か一個だけに集中しているのではなく、全てにまんべんなく気づいている。

そんな状態を探ってみましょう。

 

例えば何か悲惨な出来事があった、あるいは素晴らしすぎる出来事があった。

何かとてつもなく気を引く出来事があったとしても、頭の中が「それが全て」になってしまうのではなく、それを全体の中の一部分として、捉え直してみましょう。

実際それは、全体の中の一部分です。

葉っぱなら葉っぱを本来の位置に、正しく戻しましょう。

ちゃんと、風景の中の一部を構成する葉っぱとして、正しく見ましょう。

 

何かに一点集中するのではなく、それらをひっくるめた全体を見るようにしましょう。

 

それは「バランス」とも言えるかもしれません。

どこにも偏らない「バランス」。

 

やじろべえがちょうどバランスする中心。

そこに居るようにしましょう。

 

それはつまり「じっとしている」ということです。

何かを追っかけてあっちにフラフラ、こっちにふらふらしない、ということです。

センターに居て動かないということです。

センターに居ることによって「全て」が把握可能になります。

 

それはいわゆる「瞑想」と呼ばれるものかもしれません。

しかし、わざわざ「瞑想」として、特別な行為にしてしまわなくても、日常生活いつでも、そういう意識でいることは可能です。

センターを探ること、そしてそこに居続けること。

そういう志向を持つことは、いつでも可能です。

 

どこにも偏らないこと、全体とひとつでいること。

それこそが、我々の目指している場所ではないでしょうか。

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