「学ぶ」のではなく、自分自身で「見る」

真実は学ぶものではありません。

自分の目で見るものです。

本を読んだり、動画を見たりして、真実について学ぶことはできます。

真実とはどういうものかを、理解することはできます。

 

しかしそれは、真実について知っているということであり、自分自身が真実であることとは違います。

真実について知ることは、真実であることの足がかりにはなりますが、そのことと実際に真実であることは、違います。

 

真実を知るよりも、真実であるべきです。

 

そのためには、知識を吸収するよりも、実際に見ることです。

真実を実際に見るのです、その目で。

 

 

真実とは何か。

あるがまま、そのままです。

 

では、あるがまま、そのままとは何か。

それは、「見たまんま」ということです。

 

「見たまんま」

それは皆さん、いつも見ていますね。

「見たまんま」ですから。

 

いま目に見えているそれが、そうだということです。

いつも見ています。

見ていない時などありません。

いつも見ています。

 

そこには何の感動もありません。

見たまんまに対して、何の感動もありません。

「無」です。

 

本当に何もありません。

思考によって捻じ曲げられる前の「見たまんま」は、ただ「それ」というものです。

何の感動もありません。

 

真実に対して、何か感動を期待しているかもしれませんが、何もありません。

その何もなさに居ることが、真実に居ることであり、真実であることです。

 

 

たいていの人は、感動を求めて簡単にそこから離れてしまいます。

何かもっと素晴らしいものを求めてしまいます。

だから真実に居ることができません。真実が見えません。

 

その「何もなさ」に実際に居ること。

感動を追っかけてアッチコッチさまようのではなく、その真実、その何もなさにじっとしていること。

それこそが「実地」です。

「学ぶ」のではなく「実際に見る」とは、そういうことです。

真実や悟りを求めて、あちこち出歩いてみたり、ネットを漁ってみたりするのではなく、それこそが地に足が着いた「実地」です。

 

もう一度言いましょう。

そのまんまの何でもなさにただ居ること。

それこそが、実地です。

 

 

それは、最も簡単すぎるがゆえに、最も実行しづらいことです。

人はもっとやりがいのあること、もっとすごいことの方に引き付けられます。

だから真実を知ることは難しいのです。

 

真実は何でもないものであり、ごく些細なことであり、掴む感覚すらないものです。

何のアピールもない、透明でありふれた存在です。

「探す」という行為によって見つけるような「対象」ではないのです。

 

すでにあるものを見つけることはできません。

それは見つけるものではなく、それと共に居るものです。

そして実際、いつでもそれと共にいます。

 

探すのをやめて、今目の前にあるそれと共に、ただ居る。

シンプルすぎて、透明すぎて、掴みたいという衝動をするりと抜けてしまうもの。

 

掴みたいという衝動を止めるのは、難儀です。

だから真実と共に居ることは、チャレンジングです。

 

難しいといっても、できなくはありません。

むしろ、誰にでもできます。

エベレストを登頂しろとか、100億稼げと言っているわけではありません。

できる、できないで言えば、誰にでもできます。

 

「学ぶ」ほうがやっている感じがありますし、理解が深まる「進歩」という感覚もあります。

でも、いったんその充実感は脇へ置いて、ただ単に「見る」ことをやりましょう。

 

我々は見ていながら、何も見てはいないのです。

「理解」なんていらないのです。

そのまんまは理解以前なのですから。

コメント

タイトルとURLをコピーしました