それは、「それってどういうことだろう」と考えることとか、「こういう感じかな?」とあれこれ想像を巡らすこととは違います。
それは、見ようとすること、あるいは感じ取ろうとすることです。
ThinkでもImagineでもなく、Feelです。
考えや想像は、実際にはないものを捏造する行為ですが、Feelは実際にあるものを知覚する行為です。
ThinkやImagineは虚ですが、Feelは実です。真逆です。
たとえば、見ようとするときは目を使い、聞こうとするときは耳を使いますが、それらは入り口に過ぎません。
実際に「感じている」のは、すべて心です。
目や耳や鼻や口や、いろんな入口から入って来た感覚は、すべて心において、フィーリングとして感知されます。
つまり、心です。
物理的な器官を使わずに、心でダイレクトに知覚する。
それが「それ」を知覚する方法です。
それには、普通の五感を使った知覚を研ぎ澄ますのがいい訓練になります。
普段見るもの、聴くもの、触れるものを100%の集中力で感じ取る練習です。
ご飯ならその味、音楽ならその音、お風呂ならその温度、感覚など。
それらを100%の集中力で、もっと深いニュアンスまで。
この「感じ取ろうとする集中力」こそが、受信機の精度を上げます。
受信機の精度を上げることによって、普段は感じ取れなかった微弱な信号まで感じ取れるようになります。
より深いニュアンスまで汲み取れるようになります。
受信能力を上げること。
これが、日常的な感覚では感知し得ない信号をキャッチするための練習です。
それがすなわち、瞑想です。
このとき、実際に何を感じているか、よりも、「感じようとしている」という態度こそが重要です。
実際どこまで深く感じ取れるかは、感じ取ろうとする集中力にかかっているからです。
もっと深く。もっと、もっと、もっと。
そのとき、あれこれ考え事をしているでしょうか?
あれこれ思い悩んだり、思いを馳せたり、他のことが気になったりするでしょうか。
するはずがありません。
透明です。完全に透明です。
透明だからこそ、他の色が浸透することができます。
透明だからこそ情報が自分の中に浸透してきます。
また、自然に姿勢が良くなります。
スッと背筋が伸びます。
そうしないと微弱な信号をキャッチできないからです。
というか、どんな微細な信号をもキャッチしようとする態度が、自然と物理的な身体をそのような位置に持ってくるのです。
坐禅も究極的には「姿勢」によって悟りを得る手法ですから、物理と心は密接に結びついています。
ダラっとした姿勢だと、絶対に微細な信号をキャッチできるという感覚が起こりません。試しにいろいろと姿勢を変えてやってみてください。
よく瞑想のガイドでは「リラックスした姿勢で」と言われていたりしますが、リラックスとダラっは全然違うので、注意が必要です。
どの姿勢が最も集中的に受信できるか、物理面から入ってみるという方法もありですね。
結局のところ気にすることは1点だけで、すべての全てを受信する、という態度だけです。
これをやっていると本当に変わると思いますよ。
全てを放擲して透明になっている状態って、いってみれば何にも穢されていない本来の状態です。
そのときに感じることは、普段のごちゃごちゃと余計な考えが頭を占めている状態に感じることとは全く違います。
というか、ごちゃごちゃと余計なもので占められている時って、感じれてないんですよね。そっちに気を取られているので。
考え事しながらカレー食ってたらいつの間にか食い終わってた、味覚えてないし、みたいな。
「考えなきゃいけないことがいっぱいあるんだよ」と思うかもしれませんが、それは考えなきゃいけないことがいっぱいある世界線だけで生きているからこそ出てくる言葉で、一度そこを脱して違う見方ができれば、なんと狭い世界で生きていたことかと俯瞰できるのだと思いますが、そのためにはそこから一歩外に出てみる必要があります。
そのためのツールとしての瞑想、感じること。
試してみる価値はあると思います。
コメント
お久しぶりです。更新を楽しみにしておりました。
かゆいところに手が届く、そんな感じの言葉のつむぎ方に、毎回感心させていただいてます。
シンプルなことほど、なかなかつかみにくいもので、「やってるつもり」こそ、そうではない、ということにハッと気がつかされます。
ありがとうございます。
コメントありがとうございます。^ ^