「わかること」は必要ではない

何か「わからなくてはいけないこと」は、ありません。

わかる必要はないのです。

わからなくてもいいのです。

 

わかろうがわかるまいが、物事はただ流れていきます。

わかろうがわかるまいが、関係ないのです。

わからなくてはいけないことは、何もありません。

「わからなくてはいけない」という思いがあるなら、放棄してしまって結構です。

わかろうとすることは、もう捨ててしまってください。

 

では、わかるのではなく、何をするのか。

それは、実際に「そうである」ことです。

 

実際に、そうであることが重要です。

それは、努力とか勉強とか何かを身につけるとか、そういうことではありません。

ただ単に、そうである、だけです。

 

そう「なる」のではなく、そう「ある」のです。

 

 

人はいろいろなものに「なる」ことができるかもしれませんが、「なる」というのは、目に見える形、現れです。

「なる」以前の「ある」。

 

あるはあるでしかありません。

「なる」は、大工さん、シェフ、会社員、社長、有名人、無名人、一流、三流、いろんな形を取りますが、「ある」は「ある」だけです。

「ある」の結果として、いろいろなものに「なり」ます。

 

人は皆「ある」であるはずです。

でも、どう「なる」かにいつも意識が向けられているので、「ある」が閑却されています。

「ある」を無視して、どう「なる」かばかり、いつも考えています。

 

あってください、ひたすら。

なるは勝手についてきます。

自分のあり方に、意識を向けてください。

いつでもありさえすれば、ものごとは勝手についてきます。

あることが、うまくいく秘訣なのです。

 

だから、「わかる」とかは、どうでもいいのです。

わかってもわからなくても、「あり」さえすればいいのです。

皆さん、なんとかわかろう、なんとか理解しようとしますが、それは的を外しています。

わかることによって物事がうまくいくわけではないのです。

 

もちろん、わかることによって、何かが進んだり、変化したりもするでしょう。

しかし、それらは全て「わかる」と同じレベル、つまり目に見える現象のレベルにおいての話です。

現象はあくまで現象であって、それをどうこうしたからといって、焼け石に水みたいな話です。

「だから何?」ということです。

 

現象は次から次に現れては消えます。

そんな一時的なものにご執心していても、かなりエネルギーの無駄でしょう。

何かがどうなったといっても、あっという間に終わってしまうんですよ。

常に常に、何かをどうこうし続けていなくてはいけないじゃないですか。

そんなの疲れますよね。

 

「あり」さえすれば、物事は勝手に流れます。

まあ楽ですよね。

何もしないのです。

物事は勝手に起こって流れるのです。

 

 

焼け石に水の喩えでいうならば、焼け石になりましょう、という話です。

水をかける側ではなく。

 

焼け石にせっせと水をかけても、一瞬で蒸発します。

焼け石はどんな水がかかってきても、一瞬で蒸発させてしまいます。

どっちの側になりたいですか?

全く同じ出来事が、見る側によって180°違う出来事になります。

 

水をかけ続けますか?

それとも水を蒸発させ続けますか?

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