見ている方向と幸不幸の関係

宇宙の流れを川の流れに例えましょうか。

右から左に流れているとします。

そして我々は、その流れにプカプカ浮かんで、右から左に流れています。

 

流れに逆らうことはできません。

我々は川面に浮かぶ木の葉のようなものだから、流れに逆らうことはできません。

 

しかし、顔の向きを変えることはできます。

進行方向を向くことはできますし、逆方向を向くこともできます。

 

そして、進行方向に目を向けているとき「快」があり、逆方向に目を向けているとき「不快」があります。

 

そういうことです。

人生ってたったそれだけのことです。

 

 

宇宙は勝手に起こります。

星の誕生から、生命の誕生まで。

思考から気象から痴話喧嘩まで。

勝手に勝手にポコポコ起こってます。

 

その流れと同じ方向を向いているのか、あるいは逆方向を向いているのか。

たったそれだけのことです。

同じ方向を向いていれば「ノッてる感」があり、逆方向を向いていれば「うまくいってない感」を味わえると、そういうことです。

 

そしてその「どっちを向くか」ということも、究極の話起こってます。

なので、まあ正直、何の手出しも出来ないということですね。(笑)

起こっていることは止めようがないし、その「止めよう」すら起こっていることですから。

 

我々にできることはなんでしょうか。

「ハハーン、こういう仕組みになってるのか」と、その有様を眺めるだけです。

まあその「眺める」さえも起こっていると言ってしまえばそれまでですが。(笑)

 

 

世の中をよくする、人生をよくすると言いますが、その「よくする」とは一体なんでしょうか。

それはその人の「解釈」ですね。

世界はすでに「いい」のです。

よくする余地など1ミリもありません。

世界がすでにそうであるという時点で、1ミリの誤差もなく「いい」のです。

1ミリの誤差もなく「いい」から、そうなっています。

何らかの誤差があるなら、そうなっていないはず。

しかし現実に今この世界は「そう」なっています。

つまり世界は、1ミリの誤差もなく、完璧なのです。

世界は完璧じゃない、もっと良くしなきゃいけないという考えも含めて、完璧なのです。

 

じゃあ自然災害はなんだ、戦争はなんだ、政治家の汚職はなんだと、個人的な解釈で「よくない」と思われる事項をピックアップすることもできるでしょうが、それすらもいいのです。

人が個人的な解釈で、いろいろあげつらうのも、それすらも全部いいのです。

宇宙はあってもなくても、どっちでもいいのです。

「~でなきゃいけない」という前提が、あれはダメこれはダメを引き起こしますが、そんな前提がなければ、なんでもいいのです。

 

 

宇宙はそれでいいとしか言いようがないのです、現にそうだから。

我々の人生も、それでいいとしか言いようがないのです、現にそうだから。

お金を稼がなきゃいけない、立派なマイホームを建てなきゃいけない、ちゃんと職を得なきゃいけない。

そんな前提はそもそもないのです。

勝手な前提と勝手な否定で勝手に苦しんでいるかもしれませんが、それもまたいいのです。

どこまでいっても「それでいい」のです、なぜなら現にそうだから。

 

それでいいとは、どうしても思えない。

それもまたいいのです。

 

どうしようこうしようの前に、それを見てしまえば、もうやることなどありません。

何の手出しも出来ません。

有無を言わさぬ宇宙の流れには、我々のどうこうすら含まれてしまいます。

 

 

つまりは「向き」です。

どうこうできない宇宙の流れの方向を向いているのか、それとも逆方向を向いているのか。

どっちを向いていたとしても、結局どうこうはできません。

有無を言わさぬ流れに、我々も乗っかっているのです。

流れ自体、否定のしようがありません。

その否定すら肯定されてしまうのですから。(笑)

 

結局、快でいくか不快でいくか。

やってくることを見守るか、それとも目を背けるか。

たったそれだけのことに、落ち着きます。

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