胸の奥深くに宿る真実

生きるということは、何か空しい気がすることはありませんか?

なぜなら、楽しいことも嬉しいこともどんどん過ぎていき、何をいくらやっても全ては終わっていき、そしてまた何かを始める、みたいなことを延々やっているので、一体何のためにこんなことやっているのかなと、疑問に思うことがあるからです。

それはごく自然に生ずる感覚だと思います。

 

「空しさ」ということは、生の本質だと思います。

からっぽなのです、本質は。

「何もない」ということです。

何をどれだけやっても、それは跡形もなく消えます。

「記憶が残る」とはいえ、その記憶も日々変化し続けます。

生きていると、唯一の実質は「何もない」ということだけだと、いやがうえにも悟らされます。

 

ここで、「ああ何もないのか、空しいなあ」と立ち止まってそこで終わるのではなく、その「何もない」とは一体何なのか、さらに歩を進めてみる必要があります。

なぜならまだ先があるからです。

そこで終わりではないからです。

 

生きることが苦しい、空しいというならば、それはそこで立ち止まっているからです。

「苦しい」「空しい」の地点に立ち止まっているから、苦しい、空しいという、ごく当たり前の事実が、そこにあります。

そこを好まないのであれば、そこを動く必要があります。

 

 

さて、「空しい」という感覚を捉えた。

それは一体何なのでしょうか。

 

「空しい」とは一般的に、ネガティブな言葉です。

あるべきものがない、あってしかるべきものがない。

そんな感覚です。

「満たされている」のが本来であり、そうではない忌避すべき状態、ということです。

 

このネガティブ性を成り立たせているのは、「べき」という前提です。

あるのが当たり前、ないのはおかしい、という前提が、そこにはあります。

ですから、その前提がなくなれば、「空しい」はネガティブな言葉ではなくなります。

 

ではここでよく考えてみましょう。

本来の前提は何であるか。

 

よく考えてみると、すぐにわかりますね。

「ない」が本来だと。

何もないところに宇宙が生まれ、私たちが生まれ、私たちが生み出す悲喜こもごもが生まれる。

もともとは「ない」です。全てのベースは「ない」です。

 

もともとあったわけではないのです。

全ての起源を探れば、全ては消えてなくなります。

「ない」から全ては生じ、流転し、また消え、そしてまた生み出されたりしています。

「ない」は私たちが生まれた場所であり、そして帰る場所です。

全ての母ともいえる、安住の地です。

そこ以外に真に安らげる場所はないといってもいい、究極のポイントです。

 

「ない」に安住することができる。

そのとき、苦しみや空しさはありません。

「ある」を前提にして、その「ある」の不在を嘆くのは、まさしく芝居です。

真剣な芝居かもしれませんが、芝居は芝居です。

いえ、真剣であればあるほど、滑稽な芝居です。

そんなものは「ない」というのに。(笑)

 

何も持たない時に、私たちは真に自由になれます。

そうであってもいいし、そうでなくてもいい。

その時私たちは、最強です。

なぜなら何が来たとしても勝ちだからです。

ほとんどズルいですよ、それは。(笑)

勝ち負けという概念がないのですから。

絶対に負けないのです。だから最強です。

 

その時どんな気分ですか?

「無敵」であるその時、どんな気分ですか?

 

胸の奥に湧き上がるそのテイストは、間違いなく真実の味がするはずです。

間違えようのない真実味が、そこにはあるはずです。

何かをすることによって手に入れたものではなく、胸の奥に湧き上がる根源的な感覚。

 

何もしなくていいのです。

何かをすることによって、何かを証明しなくてもいいのです。

「それ」は、もともと胸の奥深くに内蔵されています。

 

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