不安や心配なるものは、実に「勝手に」そうしています。
本来そんなものないところを、実に勝手に、そうしているのです。
本人は、それはやってくるもの、避けられないもの、こちらの意思ではどうしようもないものと思っています。
しかし、その状況を外から見てみると、それはその人が勝手にそうやっているとしか見えないのです。
「彼があんなこと言って、私は深く傷ついた」
「上司にあんなこと言われて、私は立ち直れないほどダメージを受けた」
わかりますよ、言っていることはわかります。
同情の声が周りからも寄せられることでしょう。
しかしあなたは、風が吹いたら傷つきますか?
強風の向かい風に傷つきますか?
もし、「強風の中を歩いて、私は深く傷ついた」なんて言う人がいたら、少しヘンな感じがしますね。
実はそのヘンさは、彼や上司の場合にも同様に適用されます。
全く同じなのです。何も変わるところはないのです。
じゃあなんで、彼や上司の場合にはそういう独自の解釈になるのかというと、それがつまり、その人が勝手にそうしてるということです。
勝手に傷ついているのです。
「おいおい、ひどいこというなよ、ああいう状況なら誰だって傷つくだろう」
「じゃあ悪いのは彼や上司ではなく、本人だってのか?」
そういう声も聞こえてきますが、それを言う人たちも同じ妄想の中にいるわけですから、言うことも同じです。
妄想の「外」に出ないと、違った観点は得られません。
…
ただ単に事実を見れば、全ての喜怒哀楽は、本人が勝手に作り出していることがわかります。
この世界の事実は「無」です。
何もありません。
何もないところに色をつけ、物語をこしらえ、論理を構築し、喜怒哀楽を生む装置を作っています。
それが良いとか悪いとかいう話ではありません。
ただ単にそうだという、事実です。
何もないところに、独自のロジックを持ち込み、あーでもないこーでもないとやっている。
それが人生というものです。
それが3次元世界で生きるということです。
…
このことを知ることに、どんな意味があるのでしょう。
それはこの事実を知った時と知らない時とでは、明らかに人生の印象が変わる、ということです。
例えば、家から一歩も出ないで生活しているとしましょう。
家が人生そのものと仮定しましょう。
家の中の各部屋、キッチン、リビング、トイレや風呂が、人生の全てです。それ以外は知りません。
目に見える壁や窓やドアが、その人にとってのリアルです。
しかし、その家が実は東京都の何々区何丁目何番地にあると知ると、同じ場所にいながら、それを知らない時と比較すると、印象が変わります。
あるいはロシアのモスクワの何々街何番地にあると知ると、それもまた印象が変わります。
全く同じ家に住んでいても、それが東京の何番地にあると知っている状態、あるいはモスクワの何番地にあると知っている状態では、全く印象が異なるのです。
まるっきり同じ人生であっても、真実の視点を知っていると、全く違った印象をもって人生を捉えられるということです。
家の中から見える景色が世界の全てと思っている時。
その家が東京都にあると知っている時。
その家がモスクワにあると知っている時。
これらは全部、違った印象です。
そこが実はどこかを知ること、つまり事実を知ることは、あなたの人生を助けるのです。
不安や恐怖に苦しめられたとしても、事実の観点から見たらそんなものはない。
我々の家は無の国の無番地にあるんだという事実を知っていれば、救われます。
その不安や恐怖は、実は単なるその家独自の仕様であり、住み替えはいつでも可能である。
それが事実です。
何しろここは、無の国なんだから。
何の決まったこともないんだから。
法律も国土もないんだから。
あなたはあなたの趣味で、その家に住んでいます。
イヤならいつでも、住み替え可能です。
これは、今そう言われたから「へーそうなんだ」じゃなくて、実際に自分の目で確認してみてください。事実はどうなのかと。
体験を通して、真に理解を得ます。
「こいつはこう言ってるけど、ほんまかいな」と、事実を自分の目で確認してみてください。
人の言葉を鵜呑みにするのは、その態度こそがすなわち妄想の中を生きるということです。
妄想を脱するためには「自分の目で確かめる」ということが大事です。
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