内から見える景色と、外から見える景色

内から見える景色と、外から見える景色は違う。

だから、内から見ている人が「あれ」「それ」といっても、外から見ている人には通じません。

同じように見るには、同じ位置に立たなくてはいけません。

話が通じないのは、こういう仕組みです。

 

「立ち位置が違う」

このことは普段、けっこう忘れています。

「なんでわかんないんだよ!」って、それは立ち位置が違うからです。

立ち位置の違いを無視したままわからせようとしても、それは無理です。

だって立ち位置が違うから。

わからせるためには、同じ立ち位置に立たなくてはいけません。

 

立ち位置が違うと、同じ世界が違って見えます。

同じ世界を見ながら、Aさんは素晴らしいと言い、Bさんは恐ろしいといいます。

あなたには世界はどのように映って見えますでしょうか。

 

 

我々が立てる立ち位置は二種類です。

「内」と「外」です。

そして我々は普段、外に立っています。

 

外に立っていると、落ち着きません。

そわそわします。キョロキョロします。

「いいのかな?これでいいのかな?」と不安です。

 

内に立っていると、落ち着きます。

そこが自分のホームポジションだからです。

落ち着き、自信があり、安心です。

 

それならいつでも内に立ってればいいじゃないかとなりますが、そうはなりません。

内がどこかを忘れてしまうからです。

いろいろ外の情報に惑わされるからです。

 

内を知っているのは自分だけです。

自分にしかそれはわかりません。

 

しかし、外の情報は多種多様です。

圧倒的な力感を感じます。

それが正しいと、うっかり信じます。物量作戦です。

 

「自分だけ」という心細い、か弱い感じを信じ込むのは、なかなか至難の業です。

外の圧倒的な量感と物量の前に、容易にくじけます。

 

だから難しいのです。常に内にいることは。

簡単にはじき出されるし、簡単に見失います。

それを常に自分のものとしておくには、容易ならざる集中力が必要です。

 

だから瞑想します。

何のために瞑想するのかというと、自分を見失わないためです。

決して気持ちよくなるためではありませんし、リフレッシュのためでもありません。

結果的に気持ちよくなったりリフレッシュするかもしれませんが、それが目的ではありません。

 

これを意味も分からずやるのは、それは外側の情報に惑わされているからです。

「瞑想がいいらしい」という外側の情報を取り入れ、それをなぞる。

内側の感覚がないままに。

 

こういうことは瞑想に限らず、あらゆることでやっています。

内側の感覚がないままに、外側の情報だけを取り入れる。

 

すべては内にあるのです。

外に取りに行くのではなく、内に取りに行くのです。

 

内なる声に耳を傾ける。

これは騒々しい現代においては至難かもしれませんが、だからこそより大事なことです。

騒々しすぎるからこそ、敢えてそれをシャットアウトし、敢えていちいちわざわざ内なる声に耳を傾ける時間を確保するのです。

 

何かに合わせるのではなく、自分に合わせる。

自分をのぞき込む、自分が何かを知る。

 

これはとても大事なことです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました