事実は無意味

妄想でも空想でもなく、本当のことは何なのかと調べてみましょう。

誰かの言っていることを信じるのでもなく、仕入れた知識を活用するのでもなく、いま現にある事実を、ただ単に見てみましょう。

 

 

部屋の壁が見える、通りのざわめきが聞こえる、パソコンの画面が見える、考え事が浮かんでいる、足の裏がかゆい…。

それらがありますね。

うん、あります、確かに。

で、それだけですね。

以上、終わりです。

 

事実は、それらが、ただ、ある。

それだけですね。

 

意味も解釈もなく、そこにあるものが、ただある。

いや、意味や解釈すらもひっくるめて、ただある。

 

ただ、それが、そこに、ある。

それに対する意味付けや解釈があるなら、それらもひっくるめて、ただ、それが、あるだけ。

 

 

その感覚を、敢えて言葉にするならば、「無」ではないでしょうか。

なんでもない。「何」でもない。

なんにもない、という感覚です。

 

いや、目の前にコップがあるじゃない、頭の中に思考があるじゃない、と思われるかもしれませんが、それらの一個一個に着目するのではなく、それらが、「ただある」という状況のほうに着目すると、「なにもない」となりませんか?

 

ただ無意味にある。

ただ無意味がある。

ただ無がある。

 

このなんでもなさ。

 

我々は普段、意味や解釈の中で生きていますが、それすらも包含する、なんでもなさ。

我々は普段、意味や解釈のレベルに留まっていますが、その先に行くと、無です。

 

それは、いま現にある事実をただ見るだけでわかります。

あなたも実際に自分で確認してみてください。

誰かの言っていることを信じるのではなく、実際に自分で調べてみてください。

 

 

で、その「無」なるもの。

それは一体なんでしょうか。

 

なんでもないわけですから、もう「何」とも言えませんね。

何かを言った時点で、それはもう無ではなく、「何か」になります。

コップや思考のような「何か」になってしまいます。

 

コップや思考の奥にあるそれは、表現はできません。

でも、「感じ取る」ことはできます。

それを感じ取ったとき、どういう気分でしょうか。

 

「無」ですよね、文字通り。(笑)

深淵、無、何とも言えない。

 

何でもないからこそ、何かが展開する。

何でもないからこそ、嬉しいや悲しいが生まれ得る。

 

 

我々は普段、「何か」の中で暮らしています。

自分の名前や職業や住む場所や考え方、いろいろな「何か」の中で、暮らしています。

そして、何かを何かにしたりしなかったり、しようとしたりできなかったりしながら、暮らしています。

 

しかし「何か」は、意味もなくそこにあります。

全ての「何か」は無意味です。

名前も職業も、住む場所も考え方も、友達もパートナーも家族も。

意図も計画も衝動も夢も希望も。

それらは全て「何か」の一部ですから、無意味です。

文字通り「全て」は、ただ単に、そこにあります。

 

我々はすでに、無意味の中に生きています。

 

しかし、その無意味ということに安心ができないので、何かしらの意味付けをして、なんとか納得しているような状況です。

無意味は落ち着かないので、落ち着かせるために、意味を与えています。

 

しかし、その「意味付け」さえも、無意味です。

その意味付けさえも、無意味に、勝手に起こっていることです。

我々は無意味からは逃れられないのです。

 

しかし、そもそも無意味から逃れる必要があるのでしょうか?

 

自分の人生を何か意味あるものにしたい、充実したものにしたい、満足できるものにしたい。

そんな願望すら無意味に、勝手に起こっています。

充実も満足も、意味もなくそこにあります。

無意味です。

 

意味にこだわる必要はあるのでしょうか。

 

気持ちの良いこと、楽しいこと、嬉しいことがいい、それだけにしたいという、動物的な欲求はもちろんあります。

もちろん、それらにも意味はありません。

無意味に、勝手に起こることは、もう放っておくしかないのではないでしょうか。

 

誰のせいでもないし、何の理由もない。

「ただ起こること」に責任を取ることはできませんし、コントロールすることもできません。

文字通り「無」です。

つまり、何もできることはない、放っておくしかない、ということです。

放っておいても、勝手に意味付けはおこるし、勝手に解釈も起こります。

 

全てに対して「それでいい」と思えたなら、苦しみはありません。

それでいいのではないでしょうか。

 

なぜなら、事実を見ると「それでいい」に行き着くからです。

事実を見ると「それでいい」でしかありえないことが、わかるからです。

 

あなたもぜひ、事実を「自分の目」で、確かめてみてください。

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