絶対と相対と世界平和

大事なものは何ですか?

そんなものは、ありません。

大事なものという「認識」はありますが、「大事なもの」はありません。

 

それは「もの」に取って付けられた認識です。

「もの」の上に「大事な」という認識を付したもの。

それが、「大事なもの」です。

 

大事なものという絶対的なものはありません。

それは、人それぞれな、相対的なものです。

 

ですから、絶対の立場に立つと、「大事なもの」はありません。

大事なものは、相対の立場にしか存在し得ないものです。

絶対の立場にあるのは、単なる「もの」です。

それは「大事な」でも「くだらない」でもない、単なる「もの」です。

 

そのような「差」のない世界は、つまらないですか?

「大事な」も「くだらない」もない、ただの「もの」だけの世界。

 

差があるからこそ、楽しめる。

高低強弱の差がつまり、面白さだと。

そういう差がない、常に一定の、フラットな状態。

そんなのは「つまらない」と、相対の立場から見ると、そう思いますね。

 

では、絶対の立場から見ると、どう思えるでしょうか。

絶対の立場には、面白いもつまらないもありません。

ですから、それはいわゆる「面白い」ではないことは、確実ですね。

そして同時に、「つまらない」ではないことも、確実です。

面白いでもつまらないでもないもの、それは何でしょうか。

それは「何でもない」ですね。

面白いでもつまらないでもなく、その他の何でもないのですから、それはつまり「何でもない」ですね。

 

「何でもない」は、面白いではありません。

そして、つまらないでもありません。

それは、何でもありません。

どんな感想も、ありません。

 

では気になるのは、そんな「何でもない」にどんな意味があるのか、ということですね。

それはもう、お察しの通り、「どんな意味もない」ですね。

「何でもない」には、どんな意味もありません。

何でもないものに、どんな意味も付しようがありません。

 

つまり、「何でもない」は、何でもないでしかありえない。

「何でもない」は、何でもない以外にありえない。

相対の世界における「もの」は、「大事な」とか「くだらない」とか、何にでもなりえた。

それは恣意的に、「大事なもの」「くだらないもの」「些細なもの」「綺麗なもの」「素敵なもの」「大したもの」、何にでもなり得た。

 

それらが何にでもなり得るのは、それらの本質が「何でもない」だからです。

 

それらは本質において「何でもない」からこそ、「何か」を纏うことができる。

すでに「何か」であるなら、それはもう「何か」であり、それ以外のものではない。

 

何も決められていないからこそ、それを「何」と決めることができる。

つまり、絶対というものは、全ての相対のベースにある、ということ。

 

そういう意味で、絶対とは「座標」みたいなもので、相対とは、その座標上に位置する「」みたいなもの、と言うことができる。

座標というベースがあるから、点の位置に意味が発生する。

座標があるからこそ、「あれ」や「これ」や「好き」や「嫌い」が存在しうる。

 

座標自体が「意味」ではないですね。

意味は座標上の「点」にこそありますね。

 

我々は普段、点です。

(x=5、y=2、z=3.5)みたいな。

「意味」に生きています。

そして、「意味」は、座標というベースがあるからこそ、発生します。

 

そういう、座標なるものがあるという発想。

意味は無意味の上に成り立っているのだという発想。

これにはとても意味があります。(笑)

 

なぜなら、意味は絶対ではない、と知れるからです。

意味は絶対ではなく、相対です。

あなたのその意見、私のこの意見、誰かのあの意見。

それらは全て、絶対ではなく、相対です。

絶対的な意見など、あり得ませんね。

それは「意見」という時点ですでに、相対です。

そして、絶対の見地から見ると、(x=5、y=2、z=3.5)だろうと(x=2、y=9、z=1896)だろうと、全く一緒ですね。

それらは「無意味」という点において、全く一緒ですね。

それらは単なる「点」という意味において、全く一緒です。

 

相対の、ある一点。

そこだけにいると、そここそが絶対だと錯覚します。

しかしそこは、絶対ではありません。

もっと視点を引いてみましょう。

そこは座標上の、単なる一点に過ぎませんでした。

 

天才という一点、おバカという一点、美貌という一点、平凡という一点。

様々な点が座標上に散らばっていますが、それらは絶対的な見地から見ると、ただの点です。

様々な意見、考え方、能力、ルックス、年齢、性別。

様々な点が様々にちらばっていますが、それらは全て点です。

無意味というベース上の、いろんな場所に散らばっている、点です。

それらは、無意味というベースにおいて、同列です。

座標という絶対的な見地から見れば、そこに散らばる点はみな兄弟です。

人類みな兄弟です。

 

肌の色や考え方の違いを超えて仲よくしよう、というよりも、もともと私たちは全員、一緒なのです。

違いは超えなくていいのです。だって何も違わないから。

全員一緒の「点」です。

ただその点に(x=9、y=18、z=-2)とか(x=0、y=3.15、z=999)といった番号が付されているに過ぎないのです。

番号違いということを除けば、全員一緒の「点」です。

全員もともと一緒なのです。

 

この話はあなたにとって意味はありますか?

「意味なんてないよ」というならば、この話の真意をよく汲み取っていますね。

「意味のなさがわかること」が、この話の意味ですから。(笑)

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