すべてを取っ払った時に、そこに何が残るでしょうか。
自分の名前も、住所も、職業も、年齢も。
人間関係も、家庭環境も、思考も、思い出も。
すべて。
すべてを取っ払った時に、何が残るでしょう?
それを実際に確かめてみるのは、とても興味深いことだと思いませんか?
言ってみれば「無」です。
無を実際に見てみるのです。
…
もともとは全員が無です。
無であるからこそ、その上にいろいろ乗っかることができます。
悩みも、希望も、後悔も、幸福も。
もともとは無です、どう考えても。
その上にいろいろ乗っけて遊んでいるだけです。
悩みも、苦悩も、快感も、羞恥も、全部遊びです。
真剣な思い煩いも、逃げ出したいくらいの気持ちも、全部遊びです。
そうは思えないという気持ちも、全部です。
それは本当かウソか?という話ではありません。
それは実際に確かめてみればいい話です。
本当かウソかを「信じる」必要はないのです。
事実を見ればいいのです。
「おまえ絶対本当って言ったじゃんか」などと、他人のせいにするのはやめましょう。
他人に力を明け渡すのをやめましょう。
あなたの人生は、あなたが主人です。
自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の頭で判断しましょう。
人のせいではありません。
人が何を言ったからといって、信じる必要も鵜呑みにする必要もありません。
あなたにはあなたの目があり、耳があります。
実際にその目で見、その耳で聞きましょう。
他人に頼るということは、自分を弱くするということです。
あなたはあなたでいていいんだし、それは他人が他人でいていい理由と同じです。
…
実際に自分の目で確かめてみてください。
全てを捨てればどうなるか。
苦悩を握っている、幸せを握っている。
どこかで何かを握っていませんか?
なんにせよ握っていると、捨てたことにはなりません。
単純に捨てましょう。
捨てにくいものでも、単純に捨てましょう。
それで終わりです。
幸せなんていらんのです。苦悩もいらんのです。
なんにもいらんのです。
そのことの安心感がちょっとでも感じられるなら、捨てることへの可能性が開けます。
単純です、シンプルです。
ただ捨ててみればいいのです。
実際に物理的に捨てる必要はありません。
実際にゴミの日に何かを出したり、人間関係を整理したり、職を変えたりする必要はありません。
頭の中だけです。
頭の中だけでいいんです。
頭の中だけなら、今すぐ捨てられます。
幸せになりたいとか、結果を出したいという思いも捨てます。
そういう思いは当たり前すぎて、思っていることすら意識していませんが、一度それが意識されたなら、捨てることは可能です。
頭の中だけの話なので、単純にやってみればいいのです。
何のリスクもないでしょう。
…
何かを求めているんですよね、結局は。
何かを求めているから、こういうブログも読んでいます。
「求める気持ちも捨てる」
これが一番難しいかもしれませんね。
でも今気がついたならば、それも捨ててみましょう。
頭の中だけです。
「うん、求める気持ちも捨てた。で、どうなるの?」
となったら、結局求めていますね。(笑)
「で、どうなるの?」と、結果を期待しています。
何も期待しません。
ただ単に捨てて、それで終わりです。
普通は「そんなことしてもムダ、なにも得られないなら、やるだけムダ」となります。
だから何も得られないのです。(笑)
捨てたら入ってくるのに、捨てられないのです。
「捨てたら入ってくるなんて、到底信じられない」
はい。だから信じた通りの、その通りの現実になっていますね。
「こんなにも求めているのに、一向に手に入らない」
はい。だからその通りの現実が、今ありますね。
全部あなたが信じている通りです。
だからすべては「頭の中」なのです。
頭の中が変われば、現実が変わります。
実際に現実が変わらなかったとしても、現実が変わったのと同じことです。
同じ洋服を「みすぼらしい服だ」と思っていたのが、実はヴィンテージものの最高級品だったことがわかったりして「素晴らしい服だ」に変わると、現実としてその洋服には何ら変わりがなくても、実際は変わったのと同じことです。
また、よくある話ですが、趣味の品なんかである人がとても大事にしているものを、他の全然興味がない人が見ても「ふーん」って感じですが、それは両者の頭の中が違うからです。
すべては頭の中が決めているわけです。
現実を変えるのではなく、頭の中を変えるのです。
そういう現実を作りたかったら、そういう頭に変えるのです。
逆に言うと、頭の中が変わらなかったら何も変わりません。
たとえ現実が変わったとしても、それを捉える頭が何も変わらなければ、何も変わってないのと同じことです。
…
要はすべて「解釈」です。
そして、その解釈をすべて取っ払うと「無」です。
すべては無の上に浮かんだり消えたりしている解釈です。
解釈の立場から物を見ると、その解釈が中心でそこから広がる景色が見えるわけですが、それらの解釈を全部捨てると、全体像が見えます。
ある解釈を中心に物を見ているのと、その解釈すら「一部」となる全体像を見ているの、その次元の違いがわかりますか?
すべての解釈を取っ払った時にそこにあるもの。
それをぜひ、あなたの目で、確かめてみてください。
「何で?」「何のために?」「そしたらどうなんの?」
そういう質問は、もう出ないはずですね。(笑)
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