「本当の自分」の発見

我々は日常生活を、男として女として、会社員として学生として、親として子として、生きています。

それらはひとつの「状態」です。

我々は普段、そんな状態に着目しながら、生きています。

つまり、表面的なレベルで生きています。

 

しかし、それらの状態を実現している「本質」のほうに着目してみると、いかがでしょう。

それは相撲で言うと、各取組に注目するのではなく、「土俵」に注目する、というようなことです。

 

ひとつとして同じものがない相撲の取組。

あらゆる状態、あらゆる形態を展開する相撲の取組が実現しうるのは、「土俵」があるからこそです。

土俵があるからこそ、その上でいろいろな取組が展開されます。

 

土俵は普段、目には入りませんが、土俵がなければ、そもそも取組自体がありえません。

我々の人生における、そんな土俵的存在とは何でしょうか。

 

 

我々は相撲を見るとき、取組に着目します。

土俵を見る人なんていません。

目には入りますが、「見て」はいません。

 

同じく、普段我々は生活を見るとき、その「状態」に着目します。

誰某である、どこに住んでいる、年はいくつ、家族構成はどうこう、職業は何、年収はいくら、交友関係はどうこう。

それは相撲における取組と一緒です。

相撲においては取組を見るのが当たり前のように、日常生活においては個々がまとう「状態」に着目するのが当たり前です。

 

でも、今回はここで、日常生活における「土俵」に着目します。

日常生活における土俵って何だろうと、ちょっと思ってみてください。

常にそこにありながら、「見て」はいないもの。

 

何でしょう、それは。

土俵のように日常のあらゆる物事が展開するベース。

 

それは言葉にするといろんな言い方があるかと思いますが、ひとつの言い方として言えるのは、「認識」です。

物事は全て、自分の認識上で展開している、ということです。

 

 

認識によらないで、それらの状態を認識することはできません。

まさに、あらゆる取組が展開する土俵のような存在です。

 

では、取組に注目しないで、土俵に注目するとどうなるでしょうか。

 

取組はいろいろに展開しますが、土俵は何も変わりません。

勝った負けた、すったもんだが展開しているその下で、土俵は微動だにしません。

 

同じく、勝った負けた、すったもんだが展開している日常生活のその下で、認識は微動だにしません。

 

人は喜びや悲しみ、悲喜こもごもに翻弄されているように見えますが、その実、そのベースにおいては微動だにしていません。

微動だにしないベースがあるからこそ、翻弄されたり嵐が吹き荒れたり、悲喜こもごもが可能になるのです。

土俵がぐにゃぐにゃしていると、とても相撲なんか取れません。

 

取組ではなく、その土俵に思いを致すと、どうでしょう。

何というか「静寂」が、訪れませんか?

あるいは「無」と言ってもいいかもしれません。

 

取組していない時の土俵。

ただどっしりとそこにあるだけの土俵の、その何でもなさ。

 

同じく、我々の人生における「認識」の何でもなさ。

全ての状態、全ての形態をただ受け入れ、ただ認識しているという、とてつもない何でもなさ。

 

 

あなたは今まで、力士として生きてきました。

勝つために毎日毎日稽古に励み、土俵上で奮闘してきました。

勉強していい学校に入って、いい会社に就職して、いいパートナーと結婚して…。

 

しかし、我々の本質は、力士ではなく、土俵です。

奮闘する存在ではなく、奮闘が起こる「場」です。

それが真実です。

 

取組には始まりがあり、経過があり、終わりがあります。

そして1つの取組が終わると、また次の取組が始まります。

現れたり消えたりします。

 

しかし、土俵は消えません。

微動だにしません。

 

「本質」とは、現れたり消えたりするものではなく、現れたり消えたりしないものです。

永久不変のものです。

我々の本質は、永久不変です。

 

認識、気づき、意識。

何と言ってもいいでしょうが、取組ではなく、取組が起こる「場」です。

人生の状態、形態ではなく、それらが起こる「場」です。

 

形は崩れ、見た目は変化し、状況は流れ去ります。

しかし、それらが起こる「場」には、何の変化もありません。

 

 

あなたは生まれてからずっと、そこに居ましたよね。

生まれてから状況はいろいろに展開しましたが、あなたはずっと「そこ」に居て、そんな状況をただ見守っていましたよね。

 

「そこ」

 

位置のない場所。

生まれてから何の変化もない、それ。

頭の中であーだこーだ言っている、その土台。

全てが湧き起こる、中心。

そこにしか居なかった場所。

今もそこから見ている、その場所。

 

あ、居たよね!

確かに、居たよね!

当たり前すぎて意識することはなかったけど、確かにそこに、動くことなく、居たよね。

今までずっとそうだったし、これからもずっとそうだし、そこから居なくなることなんて、ないよね。

 

やばくないですか、この安心感。

 

我々は日々の生活において、不確かでしかないものを確かにしようという不毛な努力を続けてきましたし、今もその最中です。

しかし我々はずっと微動だにしない確かさの中に居たのです。

我々の本質は取組を必死にこなす力士ではなく、それらが展開する土俵だったのです。

 

これ以上はないという確信です。

何ひとつ確信が持てない世の中の、唯一の確信です。

 

何ひとつ確信が持てない世の中で、ハッキリと確信が持てるって、すごくないですか?

確信と共に生きられるって、ものすごい安心じゃないですか?

 

それをあなたも、つかんでください。

もうすでに居るそこに、気づいてください。

生まれてから一歩も動いていない、その場所。

ヤバい安住の地。

全てであり、すべてであり、ひとつである、それ。

 

世界は我々が思っていたような世界ではありません。

世界はあなたです、あなたは世界です。

あなたの中に世界があり、世界はあなた自身です。

 

自分は世界の中にポツリと居る存在かと思っていましたが、実は180°逆です。

自分の中に世界があります。

世界は自分の認識の上に展開しています。

 

この安心感がわかりますか?

世界はあなた自身なんですよ!?

もはやいがみ合うとか奮闘とかいう発想はありません。

敵も味方もありません。

いがみ合いも奮闘も、融和も連帯も全て、すべてを包含しています。

全てを包み込んでいます。

 

何しろ土俵です。

全ての取組は、その上で展開しています。

全取組を包含しています。

 

土俵は取組内容に責任を持つ必要はありません。

取組は勝手に行われます。

ただ、するがままにさせておけばいいのです。

世界はあるがままです。

 

何もいらないんです、何も。

必要なものは何もありません。

ただそのままで、全ては完璧です。

それはもう、完璧でしかありません。

だってそれしかないんですから。

 

初めから何の問題もありませんでした。

あなたも自分が今居るところ、物理的にではなく、「本当に」今居るところを確認してみてください。

そこがどんな場所か、実際に見てみてください。

そして本当の自分を、発見してください。

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