変わらないもの

ものごとはあまりにも変わります。

さっきまで盛り上がってたあの場はもうないし、さっきまで落ち込んでたあの場も、もうない。

あまりにも変わることはみんな知っています。

では変わらないものがあることは知っていますか?

 

変わるだけが世界じゃない。

変わらないものもある。

それがすなわち「永遠」ですね。

 

永遠にみんな憧れる。

でもそんなものはないと、心の底では思っている。

 

でもそれは知らないだけ。

永遠を知らないだけ。

永遠はある。

あるどころか、永遠が本質。

 

「変わる」は解釈。

永遠の上にのっけた解釈。

永遠が本質。

解釈を生き過ぎてて、本質を見逃しているだけ。

そのままですでに永遠。

 

 

 

解釈の海に溺れている自分を、どうやって救い出すか。

それは何もしないこと。

何もしない時、元々の本質である永遠に還る。

何かをするということはすなわち、解釈をするということ。

 

解釈の海に溺れている自分を、解釈によって救うことはできない。

それは火にさらに油を注ぐようなもの。

何もしなければ、火は勝手に消える。

 

人は何かをしたがるし、せずにはおれない。

だから、解釈の海を脱出するのは難しい。

 

もがくから溺れる。

何もしなければ、浮く。

浮いて波まかせに、ただ漂う。

 

人はどこかに行きたがる。何かを目指したがる。

でも広い大海原、どこを目指しても一緒。どこに居ても一緒。どこに行っても一緒。

なら波まかせにただ漂っていても、一緒。

 

人はあきらめた時に、理解を得る。

「なんだ、一緒じゃん」って。

ただ楽になる。

もがいていても、流されていても、結局一緒。どっちも同じ。

変わっても変わらなくても、どっちも一緒。なんでも一緒。

 

「すべて一緒」

それがすなわち、変わらないもののことであり、永遠。

 

すべて一緒ということは、比較対象がない。

比較対象がないということは、変化を認識できない。

変化を認識できないということは、変わらない。

つまり、永遠。

 

 

 

何が違うのか、変化の中で生きるのと、永遠の中で生きるのと。

それは楽さが違う。

変化の中では、恐れと、不安と、疑心暗鬼と硬直に生きる。

永遠の中では、くつろぎと、やすらぎと、自由と平和に生きる。

 

逆に、楽に生きたらその時、永遠を生きることにもなる。

身体の力を抜いて、思考の硬直をほぐし、楽に深く呼吸する時、永遠とリンクする。

 

卵が先でもニワトリが先でもよい。

どっちが先でも、そのループに入ってしまえば一緒。

楽になることによって永遠に入ってもいいし、永遠に入ることによって楽になってもいい。

 

ほとんどの人は、その可能性すら知らない。

解釈の海だけが世界だと思っている。

それは古代人がカメの上に世界が乗っていると思っていたのと大差ない。

地球が太陽の周りを回っているのではなく、天体が地球の周りを回っていると思っているのと一緒。

それらも一つの解釈であり、あなたが世界を捉えている解釈と一緒。

つまり、地動説も天動説も、解釈という意味で一緒。

どっちでもいい。

 

何かが正しくて、それ以外は正しくない。

逆の立場からみたら、逆の見方が成立する。

すなわち、どっちも一緒。

 

どっちも一緒なのに、なぜその立場に固執する。

「固執」が苦しみを生む。

どっちでもいいにも関わらず、固執や執着があるから、苦しみが生まれる。

 

あなたのその立場。

あなたが固執し、死守しようといしている、その立場。

それは他と同列です。

何も特別なことはないし、何も劣ることはない。

 

「固執」だけが残る。

固執だけが残っていますよ。

どうするんですか、それを。

固執に固執するわけですか。(笑)

 

持ってる意味ないよね。

無駄に苦しみだけを生むそれを、持ってる意味なんてない。

 

全くムダなことがわかったので、アッサリさようなら。

苦しみというのは必要なものではなく、ムダなものです。

 

ムダなものを捨てた時にそこにあるもの。

すなわち本来のもの。

それが変わらないものであり、永遠です。

 

ムダなものを捨てた時、すでにそこは永遠です。

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