幸せの論理的説明

さて。

人は「何か」によって幸せになろうと考えますね。

それはまあ普通の考えです。

「歌手になる夢を叶えて幸せになろう!」とか、「社長になっていっぱい稼いで幸せになろう!」とか。

 

しかしですね、意外と歌手や社長になってみたところで、幸せにはなれないわけですよ。

そのポジションにはまたそのポジションなりの苦労や試練があるわけですから。

どこに行っても、何をしても、結局は一緒なわけです。

苦労や試練の質が変わるだけで、やっていることは結局、どこにいても何をしていても一緒です。

 

「何か」は関係ないということですね。

幸せって、モノやコトではないと。

 

どうでしょうか、みなさんは。

そんな感覚ありませんか?

 

手に入れたいものを手に入れたら、その瞬間でもう終わってしまいますしね。

モノやコトは長続きしません、そもそも。

その時の一瞬で終わってしまいます。

そんな「流転」こそが、目に見えるこの世界の現実です。

 

つまり幸せとは、「目に見えること」ではないというわけです。

 

目に見えることにこだわることは、目に見える部分の改善には役立つでしょう。

エステに通ったら確かにキレイになった。

頑張ったら確かに収入が増えた。

作戦通りにやったら確かにうまくいった。

 

目に見える部分をいじって、目に見える部分を何とかした。

それはよくある話というか、私たちがいつもやっていることです。

 

しかし本質はそこにはありません。

目に見える部分をいじって目に見える部分を変えても、結局は何も変わってないのです、実は。

なぜなら本質は「何でもない」だから。(笑)

何をいくら頑張っても、なんにも関係ないのです。

ただ、それがそうなってこうなった、というだけで。

 

「だから何?」って思いませんか? 普通に。

それをいじってこうなった。

だから何?って。(笑)

 

 

私たちの本質は、目に見えない部分です。

目に見えない部分を満たすためには、目に見えない部分を何とかする必要があります。

 

目に見えないもの。

あれやこれやそれではないもの。

つまり「何でもない」です。

「何でもない」を知る
前回のエントリーはお読みいただけましたでしょうか。 そういうことです、つまり。 「何でもない」のです、実際。 何かものすごく深刻なことや、ものすごく心に響くあれやこれやが、みなさんの人生にもあることでしょう。 それらも全部、ジャンルでいうと...

 

結局は「何でもない」です。(笑)

どう考えても、そこに行き着きます。

どこをどう辿っても、結局はそこに行き着くのです。

どんなに回り道をしても、どんな紆余曲折を経ても、結局はそこに行き着きます。

「何でもない」に。

 

「何でもない」って、文字通り何でもないです。

努力でもないし達成でもないし、夢でもありません。

夢を叶えるということでもないし、何かを成し遂げるということでもありません。

普通は、夢を叶えたり、何かを達成したりしがちですが、そういうことではありません。

そもそも、夢は叶ってないし、何も達成してないし、何も証明してないし、すごいことは何もないし、ロジックは何もないし、成功法則は何もないし、優も劣もありません。

「何もない」んです。

 

「なんで~!?」って思いますよね。

普通は夢は叶えたいし、むしろ叶えるもんだし、叶えるために頑張るもんだと、そう思いますね。

それらは全部、「何でもない」の上に構築された「何か」です。

そういうものは、何もありません、そもそも。

そもそもは「何もない」です。

その何もないの上に、「何やかんや」が構築されています。

 

当たり前すぎて完全に忘れています。

「何でもない」は当たり前の当たり前すぎて、逆に及びもつかないと、そうなっています。

ごちゃごちゃが当たり前すぎて、もともとの「何でもない」は、完全に忘却の彼方です。

 

どう考えても「何でもない」です。

当たり前に「何でもない」です。

めちゃくちゃ当たり前です。

 

その「何でもない」が、言ってみれば幸せです。(笑)

 

「なんで『何でもない』が幸せなの? 普通は『何か』が幸せでしょ!?」

 

「何か」が幸せと思うのは、すでに「何か」です。(笑)

それは一つの解釈です。

何かは移ろう何かであって、そこにあるのは一時的な「何か」です。

一時的な幸せって何か違うでしょ? それって本質じゃないでしょ?

だから本質的な幸せは何かといったら「何でもない」に行き着くという、そういう話です。

 

意味わかんないですか?

意味はわからないでしょうね、なぜなら意味はないから。(笑)

意味とは後からこしらえた「何か」です。

 

もはやここまできたら、わかる、わからないの話ではありませんね。

わかるわからないじゃなくて「感じ」ませんか?この無意味のハッピーさ加減。(笑)

「まじかー!」っていう何でもなさ。

 

何でもないということは、もうそれでいいということだし、逆に何でもいいということだし、そのまた逆に何もなくてもいいということです。(笑)

スースーですよね、言ってみれば。

引っかかる何物もないと。

スースーです。

 

もともとそうじゃないですか?

もともとの「何でもない」にいろいろな「何か」を構築して、今に至ってないですか?

もともとは「何でもない」ですよね。

「何でもない」から始まっていますよね、すべて例外なく。

 

そこに構築された「何か」によって、みなさん身動きが取れなくなっていますが、いやいや、身動きは取れますよ、だってもともと「何でもない」だから。

どこにいても、何をしていても、身動きは取れます。

私たちの本質は「物理」ではないから。

物理的拘束、心理的拘束を超えたところに、私たちの本質はあります。

物理的に拘束されていたとしても、心理的に拘束されていたとしても、本質はいつだって「何でもない」です。

 

どこにもいないのです。

そんなところにいないのです、私たちは。

拘束なんて受けようがないのです。

 

いま、この瞬間、すでに自由です。

拘束は何もありません。

拘束は全て「何か」であり、「何でもない」が本質である私たちに、拘束はありません。

ありようがありません。

そこを見てください。

 

幸せってどこにありますか?

すでに幸せですね。

いや逆に、幸せでなかった瞬間など、一瞬たりともありませんね。(笑)

コメント

  1. とても抽象的な話ですね。とても、
    便利さとは何か?考えてみたんです。それは時短ですね。そして時短とは暇を作るためですよね?それなのに時間がないない言ってる。忙しいと言ってる。遠い地点に素早く移動できる様々な移動手段、遠く離れた人に情報を素早く伝えられる連絡手段、部屋の掃除を素早く行う掃除機、衣服を簡単に洗える洗濯機、どれも時短です。そしてその空いた時間にまたさらに別の何か(ごちゃごちゃ)を詰め込む。時短してもこれでは・・・・・・・(゜_゜)  

    物質的な様々な可能性を知る、知り尽くす過渡期にいるのかもしれません私たちは、

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