人生のストーリーを逸脱する

一般的に言って、人生とはすなわち、人生の「ストーリー」ですね。

いついつ、何々があって、どこでどうして、どう思った。

どこそこに入学して、誰を好きになり、部活でどんなことがあり、卒業して、就職して、仕事で成功したり失敗したり、恋愛で舞い上がったり傷ついたり。

そんなことをぐるぐると繰り返して、「人生」なるものが出来上がっています。

 

それはさながら、映画の「ストーリー」のようです。

我々は「ストーリー」の中に生きています。

それが一般的に「人生」と呼ばれるものです。

 

しかし、人生の真実は、ストーリーではありません。

ストーリーは「目に見える形」であって、それは真実ではありません。

 

人は、ストーリーという目に見える形を見ることもできますし、その奥にある真実を見ることもできます。

 

 

あなたにはあなたのストーリーがありますね。

どこで生まれてどう育ち、どんな性格でどんな経験をして…、と。

 

ではなぜ、あなたのストーリーはそのようなストーリーなのでしょうか?

 

わかりませんね、それは。

わかるはずもありませんね。

その「わからない」が真実です。

 

あなたのストーリーが、なぜそのようなストーリーなのかは、わかりません。

その「わからない」が真実です。

 

「わからない」って、捉えようがないじゃないですか。

捉えるということは理解するということであり、「わかった」というその感覚は錯覚です。

「わかった」という感覚が、ぽっかりと虚空に浮かび、またぽっかりと消えていく。

ただそういう現象が、意味もなく、ただ起こったり消えたりしているだけです。

それが事実です。

それが真実です。

 

 

人生も世界も、ただひたすらわからないです。

それが事実でしょう?

「わかった」というのは、現象のひとつでしょう。

その「わかった」が起こる意味も理由もわからないでしょう?

結局全ては「わからない」でしょう?

 

そのわからないの中にいることが、真実に生きるということです。

みなさん必死でわかろうとしていますが、それはひたすら真実を見逃しているということです。

 

わからないの中にいることは、不安です、もちろん。

だから、いろいろ確かなものにしたいと思います。コントロールしたいと思います。把握したいと思います。

 

だから逆に不安になります。

だって真実は「不確か」なんだから、「コントロール不能」なんだから。

「把握」なんて真実とは程遠い「解釈」のひとつに過ぎないんだから。

それって全部、真実から離れる努力をしているんだから、そりゃあ頑張れば頑張るほど、どんどん真実から遠ざかります。

 

死なないと。

偽りの人生を死なないと。

コントロールする人生、作り上げる人生、それらを全部捨てないと、真実を生きることはできません。

 

なかなか難しいですね、それは。

手放すなんて、落っこちてしまいそうで、なかなかできないですね。

 

でも逆に、たったそれだけのことでいいのです。

1億稼ぐことは、誰にでもできません。

100m10秒で走ることは、誰にでもできません。

でも、手放すことは、誰にでもできます。

努力も奮闘もいりません。具体的な行為は何ひとついりません。

ただ、手放すだけです。

 

手放すことができないのは、そっちのほうが重要であると、まだ考えているからです。

1億稼ぐことのほうが重要だと、まだ考えているからです。

まだ、コントロールによって、人生をどうこうできると考えているからです。

それもいいでしょう。

それは全然、悪いことでも、いいことでもなく、ただそうだというだけです。

 

 

でも真実は、重要なことなんて何もないのです。

何かが重要であるとすることは、ただ単にその人の解釈です。

真実はフラットです。全てフラットです。

1億稼ぐことができようができまいが、どっちも一緒です。

「わからない」の見地、真実の視点から見ると、全てはフラットです。なんの差異もありません。

1億稼ぐことができたという経験も、できなかったという経験も、全く同列です。

 

本当に優劣も何も無いんです。だってわからないんだから。

何が現れようと、どんな経験だろうと、何だっていいとしか言いようがないのです。

ただ「わからない」ままにやってきた現れや経験。

意味もなく理由もなく、ただやってきたそれらを、ただ享受するだけです。

 

それ以外に一体、何ができるでしょうか?

それしかなくないですか?

ストーリーじゃなく真実を見たら、もうそれしかありません。

 

どんなにストーリーに巻き込まれていようと、真実はそれしかありません。

あなたが知っていようと知っていまいと、真実は真実であり、そこから逃れることはできないのです。

あなたがどんなに、「わからない」はイヤだイヤだと言ってても、「わからない」は「わからない」でしかないのです。

「わからない」は真実なので、変更不能です。

変えることができるのは、あなたの「イヤだイヤだ」のほうです。

 

いや、変えるのではありません。

ただ真実を「見る」だけです。

真実を見れば、イヤだイヤだがいかに素っ頓狂なことかがわかります。

まるで風車に戦いを挑むドン・キホーテのようです。

風車は怪物ではなく、風車です。それが真実です。

 

でも、このドン・キホーテを笑っている私たちも、実生活において全く同じことをしているのです。

ウケるでしょう?(笑)

 

ありもしないものに怯え、起こってもいないことに備え、目の前の風車を怪物と思い込む。

ただそのまんまを見てごらんよ、風車だから。(笑)

ただありのままを見てごらんよ、「それ」は「それ」であって、あなたが想像したり妄想してるようなものではないから。

 

 

人生のストーリーは、妄想です。

実際のところ「それ」は、ただの「それ」です。

「それ」は捻じ曲げたり解釈したりしてあなたがコントロールする以前は、ただの「それ」です。

解釈したりコントロールしたりせずに、「それ」をそのままにしておくこと。

それが「わからない」の中に居ることであり、それが真実を生きるということです。

 

「目覚める」とは、そういうことです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました