あなたは「すべてが愛おしい」という感覚になったことがあるだろうか。
何か美しい光景を見て、そういう感覚になったことがあるかもしれない。
沈む夕日を眺めたり、空を舞う鳥を眺めたり、打ち寄せる波を眺めたり。
私が「私」というポジションにいるときに、そういう感覚になる。
私が本来の「私」にいると、そういう感覚になる。
私が、対象物であることをやめ、本来の「場」に戻った時に、そうなる。
心が安らかになる。
その時その人は、何もしていない。
真に「何もしない」にいるとき、心は安らかになり、そしてすべては、愛おしい。
「私」は対象物ではない。
対象物が展開する「場」だ。
親が子を愛しむように、場は対象物が愛おしい。
すべてが愛おしい。
「私」は対象物を眺めるしかない。
「私」は対象物ではないのだから。
「私」は対象物にはなれない。
「私」にやることは、何もない。
「私」がやることは、何もない。
「私」は何もできない。
物事は「起こっている」。
「私」において、起こっている。
万華鏡のように、展開している。
「見る」以外に、何もできない。
そこに「居る」以外、何もできない。
今までもずっとそうだったし、これからもそう。
私は「私」であった。
…
展開物の中に答えはない。
どんなに探しても、それは見つからない。
このブログに答えは無いし、他の人のどんな意見にも、答えはない。
なにしろ答えは「私」だ。
「私」である、ということが、答えだ。
私は「私」であった。
生まれてこのかたずっと。
つまり、ずっと答えを生きていた。
答えは他所のどこにも無い。
すでに答えは出ている、目の前にずっと。
探す必要はない。
すでに持っているものを探すなんておかしい。
全ては素晴らしく、答えはすでに出ている。
しかし人は、それ以外の何かを求めている。
そして自分が何を求めているかも、自分でよく把握していない。
それは、お金ではないし、恋人でもないし、生活の保障でもない。
快感でもないし、楽しみでもないし、喜びでもない。
もっと奥にあるもの。
もっともっと奥にあるもの。
表層のずっと奥にある、根源的な願い。
それは、「それでいい」ということ。
あなたが求めているものは、それじゃないですか?
今、この瞬間に、心底納得すること。
自分が自分であることに、心底納得すること。
全てがそうであることに、心底納得すること。
全てを愛すること、全てに感謝すること、全てがひとつであること。
オールOK。
お金が無いから、納得できない。
人に認められていないから、納得できない。
満足のいく仕事をしていないから、納得できない。
オールOKは、いろいろ納得できない理由を一つずつツブすことによって、達成するのではありません。
そんなことは不可能です。
「納得できないこと」に着目すると、それはキリがありません。
それはドロドロのマグマを、スポイトで水を一滴ずつ垂らして冷ますようなものです。
「それでいい」という根源的な回答は、もうすでに得ています。
生まれた時から、それは持っています。
表層的な願いしか見ていないから、惑わされる。
お金が欲しい、地位が欲しい、名誉が欲しい。
安心が欲しい、楽しみが欲しい、快楽が欲しい。
本当に欲しいのはそれじゃなく、今この瞬間のすべてに納得すること。
それができれば、すべては解決です。
そしてそれは、すでにできています。
「私」とは、すべてが解決済みのポジションですから。
全員、そこに居なかったことなどありません。
全員、例外なく、いついかなる時も、そこにいます。
これを概念だけで捉えると、「あーはいはい、そうですね」で終わってしまいます。
これは概念ではなく事実であり、我々が普段あーだこーだ悶着している現実のほうが、概念です。
目に見えるものが幻想であり、目に見えないものがリアルです。
逆転の世界です。
目に見えるものをリアルとしてきた長年の蓄積を転換するのは大変でしょうが、あなたが解決を求めるなら、根本的な解決はそこにしかありません。
この話を信じるのではなく、確かめてください、自分の経験によって。
真の解決を求めるならば、真の解決は何かを、必ず自分で確かめてください。
それは本には書いてありませんし、ネットにも載っていません。
「対象物」のどこにもありません。
他所のどこにもありません。
それがあるのは「私」だけですから。
私にとって「私」を確かめられるのは、私だけです。
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