「私」の本質

今日は一つ、パラダイム転換をしましょう。

パラダイム転換とは、今までそうであった前提を覆すということです。

今まで人類は、この「前提を覆す」ということを繰り返して、今日までやってきました。

その「前提覆し」を、今ここでやろうというのです。

 

まず、前提とは何か。

それは、「そうであるのが当たり前」という思い込みです。

人はみな、何かしらの「思い込み」という前提のもとに、生きています。

会社に行くのが当たり前、家族みんな仲良くが当たり前、他人に気を遣うのが当たり前、政府が何とかするのが当たり前、等々。

この当たり前からズレた時に人は「は?」ってなります。

「なにそれ?」って。

 

当たり前は当たり前に当たり前なので、そうでない時は「は?」ってなりますよね。

それは当たり前の反応です。(笑)

 

では、今回覆そうという「当たり前」はなんでしょうか。

 

それは、

「私」は人じゃない

ということです。

 

「は?」ってなるでしょう?

だからこその前提覆しです。(笑)

「私」と「私以外」の違い

そもそもです。

そもそもあなたは「私」と「私以外」の違いに気づいたことがありますか?

「私」は「私以外」と、まるっきり違っているということに。

 

「私以外」とは、「私」の目に映る全てであって、そこに「私」はいませんね。

私以外は全て「向こう」であって、私だけが「こっち」にいますね。

この驚愕の事実、知っていました?(笑)

 

「私以外」と「私」って、根本的に、まるっきり違っていますね。

それはほとんど、別次元の存在のように、クッキリとラインが引けるほどの「別物」です。

つまり、私以外の全ては「対象」であって、私だけが対象ではない、ということです。

 

私とは、「対象を捉えるもの」であって、対象ではない。

この世の全ては対象だけど、「私」だけが対象ではない。

いうなれば私は、それらの対象が展開している「場」ですね。

全ての対象は、「私」が捉えた物体であったり、音であったり、感覚であったり、思考です。

「私」が「私」を捉えたことはありません。

捉えたと思ったそれは、私にまつわる何かであり、私そのものではありません。

 

私の手は、「私の手」であり、それは私そのものではありません。

「私の手」は、私にまつわる何かです。

鏡に映る私は、「鏡に映る私」であり、それは私そのものではありません。

「鏡に映る私」は、私にまつわる何かです。

私の考えは「私の考え」であり、それは私そのものではありません。

「私の考え」は、私にまつわる何かです。

そしてこれらは全て、「向こう側」にあります。

 

「私」は、私にまつわる何かを含めた、全ての対象物を捉える「場」です。

 

どうでしょう。

時間をかけてよーくチェックしてみてください。

いま言ったことが本当かどうか。

 

驚いたことに、全く否定できませんね。

驚いたことに、今言ったことは全く否定できません。

「私」なるものは、全ての事象が展開する「場」です。

 

「人」じゃありませんでした。

 

私は「人」なる対象物ではありませんでした。

「私」の真実

イエスの言った「わたしが道であり、真理であり、いのちである」とは、そういうことです。

「私」はその他大勢の対象物と同じような「人」ではなく、「道であり、真理であり、いのち」なのです。

「私」なるものの神聖さをご理解いただけたでしょうか。

 

「私」は、モノではありません、思考ではありません。

「対象物」ではありません。

対象物ではなく、対象物全てが行き来する「道」であり、対象物全てに通じる「真理」であり、対象物全てを生かしている「いのち」です。

私が無くなれば、私において展開している全ても無くなります。

全ては私の内に展開しています。

私こそが、全てが往来する道であり、全てに宿る真理であり、全てを生かすいのちです。

 

つまり、私こそが、世界です。

本当の「私」を生きるとは

こういう理屈なんですね、宗教の言っていることは。

決してたわごとではなく、普通に真理を言っているだけなのです。

あまりにも私たちが普段生きている前提と違いすぎるので、ちょっと理解が及ばなかっただけですね。

 

しかしながら、事実はそういうことです。

「私」は「私以外」とは全然違う、独特の存在である、と。

これを知るのと知らないのでは、どう違うのでしょうか。

 

まずですね、感覚が違います。

今までは私のことを、「向こう側」の対象物と同列の存在と考えていました。

私も「向こう側」にいると。

だから、向こうのアレコレに同調していました。

向こうで波が起きれば一緒に飲まれ、向こうで風が吹けば一緒に凍え、向こうと足並み揃えて生きてきました。

 

しかし事実。

私は「こっち」です。

向こうと同調する必要はないのです、というか、そんなことできません。

舞台やステージが演技できますか?

演技は舞台の上にのっている役者がするものであって、舞台が演技なんてしませんし、できません。

 

「私」は役者ではなく、役者がその上で演技をするための「舞台」です。

「私」は対象物ではなく、対象物がその上で展開するための「場」です。

「私」が対象物として向こうにおいてアレコレすることは、不可能です。

 

あなたは「私」が私の目の前で何かしているところなど、見たことないでしょう?

あなたは「私」を目撃したことなど、一度もないでしょう?

「あ、あそこに私がいる!」なんて。

それは、「私」は永遠にこっちの存在であり、向こうにいることなど不可能だということです。

 

結局、今までの向こう側への同調は「気分」だったのです。

演技している「つもり」だったのです。

「私」が向こうにいることなんてできませんし、いたこともありません。

つまり、向こうとの同調は全部、「気のせい」だったのです。

 

ウソでしょ!

 

今、たしかに、みなさんの叫び声が聞こえましたよ。(笑)

叫びますよね、そりゃあ。

「ウソでしょ!」って。

しかし、ウソかどうかは、どうぞいくらでも時間をかけて調べてみてください。

そして、あなたの捉えた事実を、あなたの事実としてください。

人から聞いた話やこのブログに書いてあることを鵜呑みにするのではなく、あなたの捉えた事実を、自らの事実としてください。

それがすなわち、今日からのあなた自身の前提です。

 

前提は覆るのです。

そうやって人は進歩してきました。

イエスの言っていた神の領域は、もうそこまで来ているのです。

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