解明してみましょう、生きるということを。
生きるということは、普通の発想でいくと、物理的な身体を生き永らえさせることです。
ご飯を食べ、運動をし、排泄をし、睡眠をする。
生きるということは、物理的な身体を存続させることです。
物理的な観点から言えば。
ただし、それが生きるということとは思えない。
これもまた、普通の発想です。
何かもっと深い意義。
生きている意味みたいなものを欲します、普通の発想として。
「あー生きてる!」という実感が欲しいのです。
これもまた、普通の発想です。
同じ普通でも、観点が違います。
前者は、物理的な観点。
後者は、心理的な観点。
人は、物理的に身体を生き永らえさせるだけでは満足しません。
人生に何か、意味、意義、充実を求めずにはいられません。
ただ、飲んで食って死んでいくだけの人生に、我慢がならないのです。
…
意味、意義、充実。
それは何でしょうか。
何かはわからない。
でも、生きている充実感が欲しい。
グッとくる喜び。
心の底から湧き上がる歓喜。
これだ!という実感。
そういうものを求めてはいますが、実際には手にすることなく、日々を過ごしています。
なんとなくモヤモヤしながら。
求めているものと、手にしているもののギャップに、モヤモヤしているわけですね。
完璧な充実感を求めながら、それが得られない。
また、どうしたら得られるのかもわからない。
その現状に、モヤモヤしています。
でも、何かを始めなければ、始まらないわけです。
では、何から始めましょうか。
…
第一歩、そして究極の一歩は、「味わう能力の開発」です。
充実感、歓喜、幸せ。
どんなにそれらが目の前に転がっていても、それを味わう能力がなかったら、味わえません。
どんなに大金を湯水のごとく使って豪遊しても、味わう能力がなかったら、コンビニのアイスほどの幸福感も味わえません。
ストレッチリムジンの後部座席でシャンパン片手に「かったり~な」とか言ってるのと、公園のベンチで一口のアイスに舌鼓を打つのと、どっちが幸せでしょうか。
どっちが幸せかはわかりませんがしかし、何であろうと味わう能力がなかったら味わえないということです。
逆に言うと、味わう能力さえあれば、コンビニのアイス一つで無上の喜びを感じられます。
高級料理も100万ドルの夜景も必要ないのです。
喜びも充足感も「無い」のではありません。
あるのです、どこにでも。
ただ単に、ちゃんとそれを味わってないだけです。
テレビを見ながらご飯をかき込んでいて、ちゃんと一口ひとくちを噛みしめて味わってないのです。
そのご飯粒一粒ひとつぶからしみ出す、旨み、甘み。
それを一滴もこぼさないゾ、くらいの勢いで、ちゃんと味わってないのです。
「ちゃんと味わえてない」
そう、それは「今に集中できてない」ということです。
どこかうわの空。
何か他のことに、意識が飛んでる。
何かいいことないかなぁ、なんて思いながら、目の前のいいことを見逃してる。(笑)
ほとんどコメディですよね。
幸せも充実も、「何」ではないのです。
高級料理や100万ドルの夜景といった「何か」ではないのです。
何であろうと、それを「味わう能力」によって、幸せは味わえるのです。
「何」ではありません。
味わう能力が高ければ、胸いっぱいの深呼吸で、涙が出るほど幸せです。
さらに言えば、何がなくとも、幸せです。
ただ単に幸せです、意味もなく。(笑)
ここまできたら、全てはもう幸せでしかないのです。
何がどうとか、もう関係ないのです。
ただ幸せなのです。
味わう能力、枯れてませんか?
小さなことに難癖をつけて、そこにある幸せを見逃していませんか?
幸せは「何」ではないのです。
つまり、「どこにでもある」のです。
けなす能力よりも、幸せを見つける能力を磨いたほうが、幸せになれませんか?
そのまんまですけど。(笑)
幸せになりたかったら、幸せを感じる能力を磨くことです。
それは、高価なものを手に入れるよりも、ずっと難易度の低いことであり、そして幸せになることに関しては、ずっと確実性の高いことです。
ひとつひとつの動作をゆっくりし、じっくり味わうのです。
一滴も漏らさない覚悟で、味わい尽くすのです。
ちょっと伸びをするだけでも、筋が伸びていく心地よさを全身で味わい尽くす。
ただ歩くだけでも、心地よい足のリズム、綺麗な空、雲、空気の感触、小鳥のさえずり。
全て全て、全神経を集中して、味わい尽くすのです。
その時、完全に今に集中しています。
どこにも意識は飛んでいません。
完全に「今」と一体化しています。
完全に世界と一体化しています。
どこにも矛盾はありません。
完全円満が、そこにあります。
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