何をしても何も変わらないもの

どこかへ出かけたとして、何かをしたとして、結局何も変わらないという感覚、ありませんか?

何か普段と違う環境に身を置き、何か普段と違うことをしていても、その内実は何も変わるところがありません。

どこにいても、何をしていても、「当人」であるということには変わりがないからです。

 

どこへ行ったとしても、「当人がそこにいる」ということには変わりがありません。

何をしたとしても、「当人がそれをしている」ということには変わりがありません。

どこへ行こうと何をしようと永遠に変わらない、自分自身であるということ。

 

とても当たり前すぎて、普段このことに気づくことは稀だと思いますが、ここがスタートであり、ここが全てです。

自分は、自分自身である、ということが、スタートであり、全てです。

 

物理次元の出来事とはすれ違うことのできない、別次元に自分自身はいます。

物理的な身体や思考を物理次元に置いて、そこから物理次元の出来事を体験してはいますが、自分自身は物理次元にはいません。

だから、どこへ行こうと、何をしようと、何も変わらない感覚があるのです。

物理次元ではない、本質の自分自身が、永遠に変わらず、そこにあります。

いや、永遠かどうかすらわかりませんね。

ただ「ある」ということです。

普段は物理次元の物事にばかり着目していて見過ごしていますが、そのずっと変わらない「観察しているもの」があるからこそ、物理次元の物事にばかり着目することもできています。

 

 

結局何が言いたいのかというと、何も変わらない、ということです。

どこへ行こうと、何をしようと、何も変わりませんよ、ということです。

そもそも、変わる必要などないし、変わる意味もありません。

そして、変わることもできません。

 

何も変わっていないのです。生まれてこのかた。

変わらない自分自身がただそこにいるだけです。これまでも、これからも。

何かすごいことを成し遂げたとしても、何も変わりません。

何も成し遂げていなかったとしても、何も変わりません。

何かをしてもしなくても、自分自身には何の変更もありません。

誇れることも恥ずかしいことも、これまでの全て、特に意味はありません。

何がどうであったとしても、自分自身には何の変化もないのですから。

 

じゃあもう何もしなくていいや、って思いますか?

何をしても意味がないなら、何もしなくていいと思いますか?

それは本心ではありませんね。

意味がないならしないというのは、金にならないからやらないと同じです。

それは打算の結果の結論であり、本心ではありません。

頭で考えたチープな結論であり、それこそ全く意味のないものです。

 

意味がないからこそ、自由になれます。

意味がないからこそ、打算が不要になります。

何が得か損か、脂汗を流しながら考える必要などないからです。

得も損も同じです。同様に無意味です。

このとき本当の意味で自由になれます。

 

自分自身へと回帰したとき、そこにいるとき、本当の意味で自由になれます。

どう転んでも変わることのできない自分自身にいるとき、流転する物理次元の出来事は、まるで無意味です。

「なんでもいい」という感覚が、そこにはあります。

ぎゅっと握りしめていた物理次元の物事が、ファっと手離れます。

硬直していた手足が自由に動かせるようになります。

本当に好きなものに抵抗がなくなります。

ウソで好きだと思い込んでいたもの、思い込もうとしていたものが、自然と手離れていきます。

ウソやごまかしや偽物や建前が、ハラハラと剥がれ落ちていきます。

だってどうでもいいので。そんなもので取り繕う必要などないので。

結果、周りの環境が自然と整います。

このときあなたはもう、何かをどうこうしたいだなんて思っていません。

ただそうであるようにそうであるだけで、疑問も抵抗もありません。

自然と自然に落ち着き、それで何の問題もありません。

それでよくないですか?

 

すべては自分自身に回帰するところから始まります。

そこがスタートであり、全てです。

 

 

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