命の重さ

人の命は地球よりも重いなんて言われたりしますが、そんなことがあろうはずがありません。

命の実質は「無」です。空無です。

命に重さはありません。それは「ない」のですから。

命をつかまえることができますか? 触ったり秤に載せたりできますか?

命とは躍動そのものであり、それはつかまえたり触ったりできるものではありません。

命に重さはありません。

その重さのないものに、重みをつけるから、人生おかしくなります。

 

命を大事にするから、おっかなびっくりこわれもののように扱うから、本来の躍動から遠のいてしまいます。

命は本来、生かすべきものです。

その躍動のままに、自由に野に放つべきものです。

それを壊れないように大事に宝箱にしまって、厳重に鍵をかけ、疑心暗鬼と警戒心でびくびくと守り固めているから、おかしなことになります。

 

そんなものは、ありません。

守り固めるべき何物もありません。

事実を見てください、実際の事実を。

実際に見たことも聞いたことも嗅いだことも触ったこともない命なるもの。

命とはどれのことを言っているのですか? 何のことを言っているのですか?

「これが命です」と目の前に提出してみてください。

誰もそんなことはできません。

なぜならそんなものは「ない」のですから。

 

勘違いも甚だしいということです。

何もないのです。

宝箱を開けてみたら、中身は空っぽです。

 

バカバカしいにも程があります。

全人生をかけて全人生を台無しにするなんて、シャレにもなりません。

後生大事にしていた命なるものは、「ない」のですから。

 

「じゃあどうすんの? 何を大事に生きたらいいの」ってそれは、大事なものは何もないということです。

大事なものは何もありません。

それが、事実です。

そして、大事なものは何もないと知ることが、結局全てを大事にすることになるから、不思議なものです。

 

何も囲わないのです。

「これは大事」と、ギュッと胸に掴んでおくようなことはしません。

何も守りません。

何も囲ったりしまったり大事に取っておいたりしません。

全て野に放してそのままです。

命さえも野に放します。

 

自分の命の本来の躍動を知っていますか?

大事に囲われたり守られたりしていない、本来の命の躍動を。

 

それを知るべきです。

そして、その通りにさせてあげること。

それが本当の意味で、命を大事にすることです。

 

 

眠らせておいていいのでしょうか。

本来の躍動を制限したまま、終わってしまっていいのでしょうか。

 

人に使命があるとしたら、命を命として扱うことです。

「命」を「使」え、ということです。

何のために命はあなたのもとへやって来たのでしょう?

 

それは守られたり囲われたり、大事にしまっておかれるためにやって来たのでしょうか?

あれもしたい、これもしたい、もっとしたいもっともっとしたい、という衝動は、抑えられるために発生したのでしょうか?

 

命に重さはありません。

それは軽々と宙を舞う、自由な躍動です。

 

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