前提を疑う

本を読んでいました。

すると、「他者に勝つためにはこういう発想が大事です」みたいなことが書いてありました。

そこで疑問に思いました。

なぜ勝つことが前提になっているのだろう」と。

 

みなさんはどう思われますか?

勝ちたいと思うのは当たり前ですか。

それとも、別に勝たなくてもいいですか。

 

 

これはよくある話ですね。

 

人は当然勝ちたいもの。

人は当然成功したいもの。

人は当然人気者になりたいもの。

 

いろんな前提が、説明不要の「当たり前」として、取り扱われています。

みなさんにとっても、それらは当たり前でしょうか?

 

そういった「当たり前」こそ、着目すべき部分です。

 

「当たり前」は当たり前ではないという話を、前回もしました。

究極の解決
ある種シリーズ化しているので、このエントリーから順番に読むと、よりわかりやすいと思います。 … つまり、「何」ではない、ということです。 どんな家に住み、年収いくらで、どんな相手と暮らし、どんな趣味を持ち、といった「何」ではないということで...

 

当たり前は当たり前ではありません、冷静に考えたら。

それは人生のどっかの時点で当たり前になったものです。

初めから当たり前ではありませんでした。

 

なおかつ、自分の当たり前は他人にとっても当たり前とは限りません。

非常にあやふやなものです。

 

そんなあやふやなものを「いやそんなの当たり前じゃん」と固定化してしまったら、その時点でその人の成長は止まります。

思考停止です。

そこから先に進んでいきません。

 

「それって本当にそうなのだろうか?」と、疑問を残すことで、固定化を防ぐことができます。

「それはこう」と決めてしまったら、そこで終わりです。

頭の固い頑固オヤジの完成です。

 

常に柔軟に、固定化を避けながら、ゆるゆるとあらゆる可能性を残しておく。

それこそが健全であり、安全です。

柔よく剛を制す、です。

 

やわらかいからこそ、壊れません。

やわらかいからこそ、変化に対応できます。

やわらかいからこそ、どんな道も通り抜けられます。

 

つまり、「生きやすくなる」ということです。

 

固くなったものをほぐしていく過程。

「これはこう」と決めてしまったものをほどいていく過程が、解脱への道です。

解いて、脱ぐです。

 

 

とにかく、ありとあらゆる前提が巣食っています、私たちの頭の中に。

 

子供は学校に行くのが当たり前。

親は子の面倒をみるのが当たり前。

人に迷惑をかけないのが当たり前。

 

生まれた時からそんな風に考えていましたか?

それは人生のどこかで身に付けた「考え方」ではないですか?

 

どんな前提も、そもそもはありませんでした。

何もない」こそが、唯一の前提です。

 

すべての前提は、その「何もない」という前提に発生した「子前提」のはずです。

すべての前提の親玉は「何もない」です。

子前提を親前提として取り扱えば、その「子ワールド」という小さな前提で生きることになります。

 

そこは親に比べたら、圧倒的に不自由なはずです。

小さな小さな世界です。

そこは世界の全てではありません。

井の中の蛙大海を知らず、です。

 

そんな小さな子前提を抜け出します。

抜け出し、抜け出ししていると、最終的に行き着きます。

親前提の「何もない」に。

 

そこは、解いて脱いで最終的に行き着く先。

つまり解脱です。

井の中の蛙、大海を知るの巻、です。

 

そこに行き着く、最初のスタートは何だったでしょうか?

それは「前提を疑う」ということでした。

 

「え?なんで勝たなきゃいけないの?」

「え?なんで学校に行かなきゃいけないの?」

と疑問に思ったわけです。

 

ちなみにそれは「行動」ではありません。

毎日学校に行くのはオカシイと思ったから、行くのやめますとか、そういう話ではありません。

行く行かないはどっちでもいいのです。

 

「それって別に、人が後から勝手に決めたことだよね」と、心に自由を獲得することが大事です。

行動や目に見えるレベルの話ではありません。

行動よりも、心に感じていることが大事です。

学校に行かないという選択をすることによって、心が痛むなら、それは本末転倒というものです。

 

私たちがやりたいのは、人生の改善ではなく、心の自由を獲得することです。

心の縛りを解き放つことです。

本来の自由を取り戻すことです。

 

なんで目に見える結果にこだわるのでしょうか?

それは「前提」という呪縛があるからです。

結果が全てという固い固い縛りがあるからです。

 

「何かでなきゃいけない」と思うのは、まだ前提に縛られている証拠です。

「何もない」が、最終的な真実です。

 

 

そもそも私たちは、何でもありません。

何でもないが、何でもないの中で、何でもないをしている。

それが真実です。

 

すべては宇宙に浮かんだ、あぶくのひとつです。

漂って、はじけて消える、あぶくです。

 

それが、見たままの世界です。

固定した何かなど、そもそもありません。

 

何でもないものを固定化しているのです、脳内だけで。

そもそも固定化できる何物もありません。

固定化できるのは、脳内においてだけです。

つまり、固定化したという「思い」がそこにあるだけです。

実際は何もありません。

 

何もありません、結局。

すべては「無」という親前提の子供です。

何もない空間に漂うあぶくです。

浮かんで漂って、はじけて消えるだけです。

 

 

なんにもないじゃないですか。

そうじゃないですか?

 

 

どんなにあせっても、ただのあぶくです。

どんなにあがいても、ただのあぶくです。

 

勝っても負けても、ただのあぶくです。

有名になっても転落しても、ただのあぶくです。

何がどう転んでも、全部あぶくです。

それが親玉ワールドの真実です。

 

親玉からみたら、全部フラットです。

全部がそこに含まれてしまう親玉一族という名のもとに、全部が一律です。

成功も失敗も一緒です。

勝ちも負けも一緒です。

 

「いや、勝ちも負けも一緒なわけない」という前提に生きるなら、それもいいでしょう。

ただ、その前提で生きるのってしんどくないですか?

勝ち組、負け組と分けて、常に勝ち組にいるように気を張っているのは疲れませんか?

前提のある生き方は、しんどくありませんか?

 

何とは言えない居心地の悪さ、微妙な違和感、スッキリしない感じ、得体のしれない疲労感。

それらは全部、「前提」のせいです。

何の前提もなければ、スースーとして何の違和感もなく、毎日グッスリ眠れるはずです。

後付けした違和感が、本来の自分自身の感覚とバッティングしているのです。

 

生まれたままの自分自身。

それが自分の本然です。

生まれた時は何もなかった。

それが本然というものです。

何もないのが本然とはすなわち、我々の本然は親玉ワールドということです。

 

本然が親玉ワールドなら、子ワールドという前提を親と見なすことは、どう考えても違和感があります。

「いや、なんか違う」と、本然の声が告げるわけです。

「自分は本来、そんなちっぽけな存在ではない」と告げているのです。

 

いろんな前提がインストールされてしまったのは、別に誰のせいでもありません。

「そうである」という実状が今そこにあるだけです。

 

大事なのは、今、どうするかです。

この仕組みが見えた今、どうするかです。

 

というわけで、この仕組みが見えた今、どうします?(笑)

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