「わからない」ということ

物事って、わからないですよね。

何がどうなっているのか、わからない。

だから、わかりたいと思います、わかろうとします。

そして、わかった気になったり、いまいちわからなかったり、半分だけわかったりします。

そしてまた、次なる解答を求めてさまよいます。

 

永遠にわかるということはありません。

わかったと思ったそれは、次の瞬間には別なわかったに置き換えられ、延々それが続きます。

わかったは、常にやってきては去ります。

わかった、わからない、いまいちわからない、やっぱりわかった。

そんなことを延々繰り返しています。

 

変わらないのは「わからない」のみです。

つまり、「わからない」がわかれば、その旅は終わりです。

わからない、ということが腑に落ちてしまえば、もう問いはでません。

 

わからないでOKであれば、わかろうとすることはありません。

わからないに降伏してしまえば、試合はそこで終了です。

 

わからないに常に戦いを挑み続けているから、いつまでたっても終わらないのです。

 

わからないを降伏させることは、できません。

それはムダな試みです。

なぜなら、わからないは真実だからです。

真実を転覆させることは出来ません。

 

わからないが真実であるということがわかれば、あなたもムダな戦いを挑もうとは思わないでしょう。

ですから今回は、わからないがなぜ真実かということを知りましょう。

 

 

宇宙の運行が、なぜそうなっているかということを、あなたは知っていますか?

それは知りようがありません。

なぜなら、あなたの脳の働きも、宇宙の運行の一部だからです。

 

それは、あなたが自分の顔を見ることができないということと一緒です。

あなたは鏡を見たことはありますね、そして自分の写真を見たこともありますね。

しかし、そのとき見ているのは「鏡」または「写真」であって、リアルに自分自身を見ているわけではありません。

それと一緒で、宇宙の運行の一部であるあなたが、宇宙の運行がなぜそうなっているかについて知ることはできません。

知ったと思ったそれは、鏡であったり写真であったりで、それそのものではないのです。

 

宇宙の運行は、「ただそうである」としか言えないものです。

つまり、全ては「ただそうである」としか言えないのです。

それについて何かを言ったところで、それすら「ただそうである」です。

どこまでいっても「ただそうである」です。

なぜなら全ては宇宙の運行だから。

 

あなたの「わかった」は、わからないの一部なのです。

どれだけわかったとしても、その全ては「わからない」に含まれます。

わからないから逃れることはできないのです。

 

そのことを知った時、逆に安心ではないですか?

どうあがいてもわからないから逃れられないなら、もうムダなあがきはやめようという気になりませんか?

何をどう考えても全て「わからない」に帰するなら、逆に何でもいいんだって思えませんか?

 

わからないは、あなたを自由にしてくれるのです。

何でもいいを許可してくれるのです。

その中であなたは、自由になれるのです。

 

力んでも力まなくても、一緒。

その時あなたは、どうします?

どちらを選択します?

 

わからないは、祝福です。

わからないは呪うべきもの、克服すべきもの、やっつけるべきもの、そんなものではありませんでした。

わからないは恵みでした。

 

わからないへの抵抗をやめ、その懐に抱かれるとき、あなたは大いなる安堵に包まれることでしょう。

歯向かっても融和しても、わからない自体は何一つ変わりません。

あなたの態度に何一つ左右されません。

キャスティングボートを握っているのは、あなたの方です。

全てはあなたの態度ひとつです。

 

最もしんどい選択も、最も楽な選択も、全て同列です。

さあ、あなたはどうしますか?

 

わからないの正体を知ることは、宇宙の流れへの招待状です。

そのためにあなたは、日々問いを発します。

これってどういうことだろう、なぜこうなっているのだろう。

全ての問いはわからないに通じます。

そして、そのわからないを突き抜けた時、無限の宇宙があなたの前に広がります。

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