「愛」というキーワードが、よく登場します。
「愛は地球を救う」とか、「愛こそはすべて」とか。
愛とは何でしょう。
スピリチュアルでよく言われる愛は、一般に言われる愛とは、ずいぶん趣が異なります。
愛は、求めるものとか対象ではありません。
「その時そこにあるもの」です。
愛にこだわったり、囚われる必要はありません。
愛は手に入れるものでも、表現するものでも、知るものでもないからです。
ただ、「その時、そこに、あるもの」です。
では、「その時」とはいつか?
それは、真実であるときです。
では、真実でない時などあるのでしょうか?
ありません。
いつでも真実です。
ちゃぶ台の上にご飯が乗っかっている。
乗っかるご飯は、朝ご飯、昼ご飯、夜ご飯といろいろ変わりますが、ちゃぶ台はかわりません。
ただし、ご飯には目が行きますが、ちゃぶ台には目が行きません、普通。
そういうことです。
真実でない時は一瞬もありませんが、普段はそれが見えないのです。
ちゃぶ台でない時は一瞬もありませんが、ご飯にばかり目が行って、ちゃぶ台が目に入らないのです。
だから、「愛ってなんだ」とか、「愛に生きたい」とかいう話になります。
ちゃぶ台が見えないのと同じように、愛が見えないのです。
だから想像や妄想をめぐらすのです。
…
愛は知らなくてもいいものだし、こだわらなくてもいいものです。
ただしそのことは、ちゃぶ台が見えたときにわかります。とても逆説的ですが。
見えないからこそ知りたいと思い、見えないからこそこだわります。
見えたならば知りたいとは思わないし、こだわりもしません。
つまり、見ようよ、ということです。(笑)
愛を知りたいならば、愛を直接求めるのではなく、真実を見てください。
「愛」は単なる単語であり概念なので、直接求めてもつかめません。
愛は真実であるとき、そこにあるものです。
ただ、あるんです。
それはどうこうするものではなく、ただ、あるんです。
「愛」という言葉が本当によく使われるので、自分なりの解釈を構築している人も少なくないし、こだわる人も少なくないでしょう。
忘れてください。(笑)
愛というものをいろいろと想像したりデッチ上げたりすることには、意味がありません。
愛は何かすごいもの、大事にすべきもの、大切なものという感覚をお持ちかもしれませんが、それは妄想です。
愛にこだわると、逆に愛を見失います。
愛は忘れていいものであり、気にしなくていいものです。
それよりもリアルを見てください。
真実を見てください。
大事なのはそっちです。
…
愛にこだわると、先に進めません。
なぜならそれは、つかめないものだからです。
つかめないものをつかもうとしても、つかめません。
つかめないものをつかもうとするよりも、つかめるものをつかんでください。
つかめるものとは、事実です。
現にそうである、事実です。
つまり真実です。
愛は探求者にとって、一種のワナです。
何かスゴそうな雰囲気を漂わせ、甘い香りで誘っておいて、実体が何もない、ワナです。
愛を追求しないでください。
「愛」というあやふやなワードにとらわれないで、ちゃんとつかめる事実を見てください。
実際につかめるものを、つかんでください。
その時愛は、そこにあります。
ただ単に、そこにあります。
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