「人生のしくみ」と「本当の自分を生きる方法」

以下の文章には、人生のしくみと本当の自分を生きる方法のエッセンスが詰まっています。繰り返し読んで理解を深め、繰り返し実践してみてください。

 

生きていて何となく感じる違和感、居心地の悪さ、すぐれない感じ、不安。

それは、何かが間違っていますよというサインです。

本当の自分自身を生きていたら、そんな感じがするはずありません。

生きていて感じる「なんか違う」という感じは、実際になんか違うから、そう感じるのです。

 

本当の人生を生きる第一歩は、まずそのサインに気づくことです。

「ああ、なんかスムーズじゃないな、なんか引っかかるな」という感じを、敏感に察知し、見過ごさないことです。

その感じを、簡単にスルーしないことです。

それに気づいて、そこに留まることです。

そして、うまくいっている時に感じるであろう感じとの違いを、認識することです。

人生のしくみ

本当の本心に生きるとき、ウソやごまかしはありません。

明け透けであり、スースーと風が通り、何の引っかかりもありません。

何の隠し立てもなく、何のわだかまりもないとき、全てはスムーズです。

それはありのままであるときです。

 

しかし、それでは生きていけないと、人は人生の早い時期で気づきます。

あまりにも無防備で、簡単に傷ついてしまうのです。

ですから自分を守るために、ウソやごまかしを始めます。

自分を強く見せるために、傷つかないようにするために、本来の自分ではない自分を作り上げ、その自分を演じ始めます。

その「本来の自分」と「作られた自分」とのギャップが、違和感の正体です。

 

あなたの本心は、本当の自分でいたい、ありのままの自分でいたいと切望しています。

しかし、恐怖やプライドが、それを許しません。

本当の自分が受け入れられなかった経験が、あなたの自尊心を傷つけ、恐怖を生みました。

そして自分を守るために、本当の自分を硬い殻に押し込め、違う自分を生き始めたのです。

本来の自分

そのかわいそうな自分に気づいてあげてください。

その自分は、どんな自分ですか?

決してダメな自分ではありませんね。

むしろ生き生きとしています、輝いています。

 

ただ、周囲に屈したのです、恐れに屈したのです。

傷つくことを恐れたのです。

 

それはちっとも悪いことではなく、当たり前のことです。

恐怖に無頓着でいられるほうが、むしろ稀です。

ただ、そのことに気がついた今、本当の自分を解放してあげる時です。

本当の自分を取り戻す時です。

 

 

硬い殻に押し込められた自分を、どうやって救い出しましょうか。

 

まずはその真の自分に注意を払いましょう。

それはどんな子かなと、関心を持ちましょう。

その声に、耳を傾けるのです。

どんな些細な動向も見逃さないように、完全に注意を払うのです。

 

その子は本然でありますから、我も欲もありません。

自己主張もしません。

ただ「在る」だけです。

草木に我も欲もないのと同じです。

 

あなたから関心を払わないと、その子は見つけられません。

簡単に見過ごされてしまいます。

いつも、いつでも、注意を払ってください。

その子はあなたの「本心」です。

エゴの自分

その昔、ある時点で、その子を表現することに恐怖を感じましたね。

その子自身では生きていけないと感じましたね。

 

誰がでしょう?

 

その子自身ではありませんね。

その子自身が、恐怖を感じたわけではありません。

草木が恐怖を感じないのと同じように、本然であるその子が恐怖を感じることはありません。

 

恐怖を感じたのは、別の自分です。

その子を見ているほうの存在です。

それがいわゆる、「エゴ」と呼ばれているものです。

 

エゴは自分を脅かすものから、自分を守るために働きます。

エゴは自分を守るために働いています。

危険を察知してそこから遠ざかったり、攻撃してくるものを撃退したり、自分にとって都合のいい状況になるよう取り計らったり。

自分を安心、安全、快適に生存させるため、常に気を張っています。

 

その原動力は「個の存続」ですから、やることは恐怖に対処することであり、自分の都合を優先することです。

 

どうでしょう。

身に覚えはありませんか?

 

お金がないと困るだろうから働き、将来が不安だからパートナーを探し、一人は寂しいから楽しくない友達とも付き合う。

周囲を自分の思い通りに動かしたいと思ったり、他の人は貰えなくても自分だけは貰いたいと思ったり、世の中不公平だと感じたり。

 

それらは全て、エゴがまっとうな仕事をしている証拠です。

不安定、不確定な世界で溺れないように、必死でもがいているのです。

 

で、うまくいきますか?

うまくいかないからこそ、悩んでいるのですね。

エゴの問題点

うまくいかないのには、理由があります。

 

恐怖に対処するには、対処されるべき恐怖が必要になります。

自分の都合を優先するには、自分の都合が優先されるべき状況が必要になります。

つまり、エゴをもとにした生き方は、自ら恐怖を呼び、自ら不都合を呼ぶことになるのです。

 

恐怖に対処するには、恐怖が必要です。

不都合に対処するには、不都合が必要です。

エゴを中心に据えると、エゴは自分の仕事に必要な恐怖や不都合を、どんどん見つけ出してくるのです。

この仕組みによって、エゴが頑張れば頑張るほど、より恐怖は増大し、より不都合な状況は加速します。

 

 

つまり、手放すしかないのです。エゴを。

エゴをもとにした生き方は、うまくいかない仕組みになっています。

 

もちろんエゴは防衛本能みたいなものであり、動物的人間に備わった機能なので、それを捨てることは不可能ですし、そんな必要もありません。

それはそれで、本来の機能として使っていくべきものです。

 

「エゴを手放す」とは、それを中心に据えるのをやめるということです。

恐怖や不都合への対処を人生の主活動とするのをやめる、ということです。

エゴを中心に据えることをやめて、本来の自分を中心に据えるのが、本当の生き方です。

 

ではその場合、恐怖や不都合にはどのように対処したらいいのでしょう?

本来の自分を生きられれば、それはベストだということはわかりますが、それができないからこそ、自分を押さえ込んで、エゴ中心に生きてきたわけです。

 

恐怖や不都合はイヤだけど、エゴに頼るのも問題がある。

では、どうしたらいいのでしょうか?

本当の自分を生きる方法

さて、ここまでで現状の把握はできました。

ここから導き出される結論は何でしょう。

 

それは、恐怖や不都合に向き合うことです。

恐怖や不都合なるものの実体を暴くのです。

そして、真実は何かを見極めるのです。

 

エゴを発動させたその昔、恐怖や不都合の正体はわからなかった。

ただそれが、「嫌な気持ち」ということだけがわかった。

だからそこから逃げ出したい一心で、エゴに自分を明け渡すという選択をした。

 

しかし今は大人です。

じっくりと腰をすえて、恐怖や不都合の実体を見極めるだけの落ち着きは取り戻しています。

腰をすえて、本当のところは何なのか、真実は何なのかを見極めましょう。

エゴの実体

昔は恐怖や不都合の存在を、確かに感じました。

いや、今でも感じていることでしょう。

だからこそエゴを発動させて、それらに対処する道を選び、今も選び続けています。

 

ではそもそもなぜ、恐怖や不都合の存在を感じたのでしょう?

 

それは、まわりからそれを知らされたのです。

恐怖や不都合がある前提で生きている人間社会から、じわじわとあなたに浸透してきたのです。

 

人間社会は、恐怖や不都合を前提に、それを押さえ込むというやり方で成り立っています。

つまり、エゴを中心とした人間によって、エゴ的社会が構築されているのです。

 

エゴを中心とした社会とは、恐怖や不都合を次々と生み出す社会です。

恐怖や不都合を押えれば押さえるほど、それらはますます増大します。

昔よりイライラする人は増え、自殺や虐待は増加し、社会のあちこちでほころびが出始めています。

 

自然界は、そうではありません。

なぜなら動物達は生存本能(エゴ)を、本来の機能として本来的に使っているからです。

リアルに身の危険を感じたとき、リアルに食べ物が欲しいとき、リアルに休息を欲したとき。

リアルに即して、生存本能は機能しています。

 

しかし人間社会は、リアルのレベルはとっくに通り越して、幻の恐怖、幻の不都合に対して、生存本能(エゴ)を機能させています。

ありもしない恐怖、ありもしない不都合に対して、防衛本能、生存本能を発揮しています。

恐怖や不都合を必要とするエゴは、もはや幻に対しても仕事の幅を広げているのです。

本来、誰もあなたを傷つけないのに、何の不都合もないのに、本来ないものを「ある」として、エゴは仕事を続けています。

 

満員電車でちょっとぶつかっただけでナイフを振り回す騒ぎになり、上司のちょっとした一言で会社に行くのをやめる。

切り分けたケーキがちょっと小さいと文句を言い、店員の些細な態度が気に入らないとクレームをつける。

 

そんなことで死にはしないのに、深刻な状況にもならないのに、完全なる幻に対して、命の危険に対処するくらいの反応を見せています。

自分が脅かされた、傷つけられたとする出来事が、どんどん小さなことにまで広がっているのです。

エゴを中心に据えると、必然的にそういうことになります。

 

エゴが頑張れば頑張るほど、対処すべき恐怖や不都合をどんどん見つけ出し、その恐怖や不都合に対処するために、さらにエゴが頑張り、エゴが頑張るとさらに恐怖や不都合を見つけ出してくる…。

この悪循環。

この現状を、見抜きましょう。

 

あなたが今、せっせと対処している恐怖や不都合は、ほとんどがです。

その現状を見抜いてください。

幻を相手にするのをやめ、リアルを見てください。

 

真のリアルを見ることが、本当の自分に通じる道です。

真実とは

幻ではない、真のリアルとは何か。

幻ばかりを相手にしていた我々は、真のリアルが何かということに無頓着でした。

 

でも本当に大事なのは、リアルのほうです。

本当の自分を生きたいならば、真実が何かを知りましょう。

世界の真実

まず、現状をリセットします。

ゴチャゴチャでわけのわからなくなった現状を、一旦まっさらにします。

世界をゼロから始めます。

 

世界にあなたしかいないと仮定してください。

あなた以外、何もない。

人もいない、物もない、感覚もない、思いもない、感情もない、何もない。

まっさらです。

 

その世界では、やるべきことは何もありません。

心配すべき何物もなく、気を使うべき何物もありません。

減るものは何もなく、増えるものも何もありません。

生も死もなく、寿命もありません。

上も下もなく、好きも嫌いもなく、価値も無価値もありません。

 

愛することもなく、愛されることもありません。

疲れることもなく、癒されることもありません。

頑張ることもなく、なまけることもありません。

そもそもそうなるべき状況がありません。

なんにもないですから。

 

 

 

 

 

そんなまっさらな世界。

「なんにもない」って、どういう感じでしょうか?

プラスのイメージ? マイナスのイメージ?

 

プラスもマイナスもないですよね、なんにもないわけですから。

比較のための基準すらないわけですから、正も負も、ポジティブもネガティブもありません。

「なんにもない」って、結局なんでしょう。

 

平静、ですよね。

なんの動きもない、比較もない、良いも悪いもない。

フラット、無心、静謐。

 

喜びでもないし、虚無感でもない。なんでもない。

それは日常感じる世界と、どう違いますか?

 

そこには、やらなければいけないこと、義務、責任、縛りはありません。

そういう意味で、「自由」「解放」「くつろぎ」「平和」と言えるかもしれません。

 

そして、楽しいこと、嬉しいこと、気持ちいいこと、快楽もありません。

「えーそれはつまらない」と思われるかもしれませんが、果たしてそうでしょうか?

 

「楽しいほうがいい」「楽しくないのはつまらない」という思いは、それはそれで一種の縛りです。

楽しむことに縛られているのです。

「楽しいことなんかなくても全然OK」というのが、本当の自由です。

「楽しいことだけを集めたい」という思いは、「楽しいこと」に縛られた不自由です。

 

楽しいこと、嬉しいこと、気持ちいいこと、快楽が無いことは、やはり縛りからの解放なのです。

 

 

世界をリセットした状態。

まっさらな最初の世界は、「自由」「解放」「くつろぎ」「平和」でした。

そして今あなたが実際に感じている世界、いわゆるあなたが見ている現実は、その上に乗っかったゴチャゴチャです。

ゴチャゴチャを取っ払って世界の根本を見ると、それは無垢と完全です。

 

そこには恐怖も不都合もありません。

何の引っかかりも違和感もありません。

 

乗っかったゴチャゴチャ(=現象)には、何ひとつ本来的なものはありません。

それは、現れては消えるものです。

いつでもちゃぶ台返しのように、バラバラと飛ばされるものです。

でも、ちゃぶ台(=世界の根本)自体は、何の変化もありません。そのままです。

その上に何が乗っかっていようとも、ちゃぶ台はちゃぶ台として不変です。

 

その不変のもの。

それが真実です。

自分の真実

では、現象としての自分ではなく、真実としての自分を見たとき、何が見えるでしょう。

 

現象としての自分を見ると、そこには年老いていく顔や身体があり、変わっていく考えや思いがあり、揺れ動く気持ちや感情があります。

それらが乗っかっているちゃぶ台、真実としての自分はどうでしょう。

 

もちろん、先ほど見た「世界」と同じです。

世界とあなたは全く同じです。

 

その上にどんなゴチャゴチャが乗っていようとも、その根本は純真で無垢で、完全です。

無なのだから、完全としか言いようがないのです。

完全無欠。

欠けるところが何も無い。

 

その無から勝手に湧き起こってきます。世界が、そしてあなたが。

放っておいたら勝手にそうなるもの、それが世界であり、あなたです。

あるがままの本然です。

 

その様子を見てごらんなさい。

無から展開する世界を。

ただひたすら展開する世界を。

あなたもひっくるめて世界です。

良いも悪いもなく、世界はただひたすら展開しています。勝手に。

 

たとえエゴに乗っ取られ、必死でもがいているあなたであっても、それもひとつの展開として、ただ勝手に起こっています。

我々に何かやることはありますか?

ありません。

世界はただ勝手に展開しています。

 

現象をどうこうするのではなく、ベースに居てごらんなさい。世界の根本に。

そこに居るとき、世界は勝手に展開します。

あなたはただ、それを目撃します。

 

ベースに居るとき、世界は違って見えます。

全てが驚異です。

全てが輝きです。

全てが愛の結晶です。

 

あなたは世界に生れ落ちた現象ではないんです。

あなたが真実なのです。

愛と真実

真実を見ること。

真実で在ること。

それが解決です。

 

「やること」は何もありません。

見て、見続けて、そうで在ること。

 

解決も何もないですね。

最初から解決しているんですから。(笑)

ただそれを知らないから、もがいているのです。

 

知らなくても問題はないけど、知らないと苦しいから知りたい。

そういうことですね。

 

ただ知るだけなのです。

大丈夫であったと、ただ知るだけなのです。

 

何も変わりません。

変わるものなど、何もありません。

変えられるものなど、何もありません。

 

あなたは自分の人生を変えようともがいているかもしれませんが、何も変わりません。

あなたにできるのは、それでいいんだと知ること、それでしかないんだと知ること、そして本当の自分を知ること。

 

そのとき愛は、そこにあります。

愛は与えるものでも受け取るものでもありません。

生み出すものでもはぐくむものでもありません。

ただそこにあるものです。

 

愛が何であるかを知る必要はありません。

知ろうとする必要もありません。

愛とは知るものではなく、知られるものでもなく、ただそこにあるものです。

すでにそこに、あるものです。

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