当たり前ですが、必要な恵みはやってきます。
そこに理由も根拠もいりません。
ただ単にそうなのです。
なぜなら、必要な恵みはやってくると当たり前に思っているからです。
「そうである人」のまわりに「そうである状況」は構築されます。
理由や根拠は「そうである」と思いやすくなるための道具であって、別に必要なものではありません。
何もなくても、ただ単に「そうである」と思えれば、それでいいのです。
多くの人は「必要な恵みなんてやってくるはずがない」と思っているから、その通り状況が構築されます。
「いやいや、自分は確かにそう思っているけれど、全然そんな状況じゃない」というならそれはつまり、全然そうは思っていないということです。
心の奥底では違うことを思っている、ということです。
「そう思うべきであると思っている」とか「そう思いたい」または「そう思っているつもり」など。
いろいろあるでしょうが、それはつまり「そう思っている」以外のものです。
これは難しいことでしょうか?
ただ単に「そう思う」ことは、難しいことでしょうか。
いいえ、全く難しいことではありません。
「バナナを思い浮かべてください」と言われてできるなら、それはできます。
ただ単に「そう思う」ことは誰にでもできます。
難しいのは「そんな簡単なことでうまくいくはずがない」という抵抗を外すことです。
…
私たちはいろいろな思い込みを持っています。
「そんなことあるはずがない」とか「これはこうであるべきだ」とか。
育ってくる過程で無意識に身につけたことがほとんどでしょう。
無意識であるがゆえに、自分にそんな抵抗があるということに気づきません。
無意識のうちに「そんなことあるはずがない」と思い込んでいます。
無意識のうちに抵抗しています。
その「無意識の抵抗」に気づけるかどうかがポイントです。
それは、意識的に自分はどんな抵抗を持っているのかを探ることによって、発見できます。
「お金は節約しないといけない」と無意識に思っているなら、お金を使うことに抵抗があるでしょう。
欲しいものがあったとしても、買うのを我慢したり、「ああまた減ってしまう」というイヤな気分と共にお金を払うことでしょう。
そんな人が、「お金なんて必要な時に入ってくる」と思うことは、かなり難しいことです。
「そんな夢みたいなことがあるわけない」と、固く信じて疑いません。
その固く信じていることが現実となっているわけですが、それが頭で理解できたとしても、その信念を変えることは容易ではありません。
頭では納得できたとしても、心がついてこないのです。
そして結局ものをいうのは、心です。
そこがつまり「難しさ」です。
本来、何をどう思ってもいいこの世界で、あえて自分に不利になる信念を握って離さないという、よく考えたら理不尽極まりないこの「抵抗」こそが、ポイントです。
思うだけならタダだし、誰も傷つかないわけだから、自由に思えばいいのです。
実際に恵みがやってこなかったとしてもいいじゃないですか。
「恵みはくる」と心底思えた時の、その嬉しさ、楽しさ、ワクワクこそが、すでに恵みです。
「何この気楽さ!何この自由!」という、その心持ちがすでに、恵みです。
そういう意味で、物的証拠は不要です。
「感覚」ですでに恵みを受け取っているので。
この不思議なパラドックスみたいな仕組みを、よく咀嚼してみてください。
寸分の狂いなく「思った通りの」感覚(=世界)を生きているというその事実。
自分は自分が思った通りの世界を生きていて、なおかつその「思う」ことは、自由にチョイスできるという、その事実。
その事実の中で、あえて不快になる思いを選択し、「それしかない」と固く握りしめているというその事実。
こうして俯瞰してみると、不思議ではないですか?
なぜあえて不快な選択をしているのかと。
どう思おうと自由なのに。
これは今、あえて「意識的」に確認したからわかることで、無意識の固定観念の中にいたら、普通わかりようがありません。
だからもし不快があるとしたら、意識的にその原因を探ってみてください。
どのような信念が、自分を不快にさせているのかと。
自分には能力がない、お金がない、モテない。
元気であるべき、明るくあるべき、みんなに好かれるべき。
調子に乗ったらダメだ、コツコツ努力しないと物事は達成できない、好きなことして生きていけるわけがない。
いろいろな思いが湧いてきたならば、なぜそのような信念を持つ必要があるのか問うてみてください。
すぐにわかりますが、そのような信念を持つ必要など、どこにもありません。
よく考えたら、なぜそんな信念を持たなければならないのか、理由はひとつも見つかりません。
そこで我に返ります。
そしたらその段階で、改めて選び直せばいいのです。何がいいのかと。
つまり、意識の力を使うのです。
不快を見過ごさないで、何が不快なのか、何で不快なのかと、あえていちいちツッコむのです。
これに比べたら、自分にとって愉快な気持ち採用するのはとても簡単です。
なぜならそれは「快」だから。
みなさんも気持ちいいことは好きでしょう?
ですからチャレンジは、無意識に握りしめている不快な思い込みにいちいち気づけるかどうかであり、それを逐一手放していけるかどうかです。
それは長年の間に深く自分に染み付いているので、何度でも何度でもそこに戻ってしまうくらい習慣になっている思考の癖です。
それにいちいち気づいて、その都度新たな感覚を採用するということを何度も繰り返さなくてはならないでしょう。
しかし、新たな習慣が根付けば、今度はそっちが当たり前になります。
これはいってみれば「努力」と言えるでしょう。
この手の話は雲を掴むような話で、わかったのかわからんのかようわからんという人には朗報です。
具体的にできる、具体的な努力がここにあります。
すなわち、握っている不快な思い込みを発見し、それを手放すという作業です。
試しにやってみてその結果どうなるのか、ぜひ自らの経験で感じてみてください。
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