人生ゲーム

人生を一種のゲームと考えてみましょう。

どれだけ高得点かを競う人もいれば、どれだけ楽しめるかにこだわる人もいます。

そしてもちろん「つまらんゲームだ」と、やる気の無い人もいます。

それぞれがそれぞれの態度で、各々のゲームに取り組んでいます。

 

ゲームをやめるとはつまり「死ぬ」みたいなことですから、生きている限りゲームに参加しているということです。

全員が全員、ゲームの中にいます。

ゲームに没頭しています。

 

このとき、生きながらにしてゲームをやめることは可能でしょうか?

いや、生きている以上ゲームを抜けることはできませんから、それはつまり「今ゲームやってるな」と、意識だけがそこから抜けるということです。

 

ゲームに夢中になっていると、自分がゲームをやっていることを忘れて、完全に画面の中に没入します。

でも実際は、部屋の中でコントローラーを握っているのが本当の自分です。

そのことに気付くことができるかどうかという話です。

 

 

この例えでいくと、人々の悩みって、実は全部ゲームの中の話です。

あの人の態度が気に食わないとか、好きな人に振り向いてもらえないとか、仕事をクビになったとか。

それって全部、ゲームの中の話です。

 

ちょっとゲームの中の話は置いといて、コントローラーを握っている人について考えてみましょう。

その人に悩みはありますか?

ゲームについての悩みではなく、その人自身の生活において。

 

そもそもその人に生活はありますか?

てかその人って誰ですか?

いま実際にやっているこの人生をゲームだと考えた時、それをやっているのは誰ですか?

ゲームの中のキャラクターではないですよ。

そのゲームを、ゲームの外からコントローラーを握ってやっている人です。

 

これは一つの例えですから、自由に考えてみましょう。

いや、考えるというより、感じてみましょう。

想像でデッチ上げるのではなく、暗がりに目を細めるように、「見る」のです。

なんだかよくわからない、ぼんやりとしたそれをよーく目を凝らして「見る」のです。

 

実際に「人生ゲーム」というボードゲームもあるくらいですから、人生をゲームと捉えるのは容易でしょう。

ゲームと言われれば「たしかにな」と、簡単に腑に落ちると思います。

では、それがゲームだとしたら、それをやっているのは誰でしょう。

自分と言うキャラクターを右に左に動かして、操作をしている人物は一体誰でしょう。

 

 

それってやっぱり「自分」ですよね。

いえむしろ、ゲームの中のキャラクターである自分よりも もっと、自分ですよね。

つまり、そっちのほうが本当の自分ですよね。

ゲームの中の自分は、ゲーム内に存在するための「コマ」みたいなものであって、それが本当の自分かと言われれば「いやちがう」ってなりますよね。

コマじゃなくて、コマを操作している人のほうが、本当の自分ですよね。

 

今、私は、こういう容姿、こういう体型、こういう性格でここにいますけど、それって「コマ」についての話ですね。

 

さあ、コマでもなくゲームでもなく、それをやっている人について考えてみましょう。

コマよりももっと自分である、本当の自分とでもいうべき人。

 

その人に容姿は、、、ないですね。

体型は、、、ないですね。

性格は、、、ないですね。

何も、、、ないですね。

何もないけれども、いますね。

いるからこそ、ゲームをやっていますね。

 

その人に喜怒哀楽はありますか?

ゲームを見て「アウチ!」とか「イエス!」とか言っていますか?

言っていませんね。

それを言っているのは、ゲームの中のキャラのほうですね。

 

ただただ見ているだけですね。

ただただ「アウチ!」とか「オーノー!」とか言っているキャラクターを見ているだけですね。

 

ただ見ている人。

そしてそれが、本当の自分。

 

その本当の自分と、ゲーム内のキャラである自分は、全く存在の次元が違うということは、簡単に理解できると思います。

ゲームの中のコマ同士は、同列ですね。

三次元内に散らばっているあの人もこの人も、同列ですね。

しかし、コマとプレイヤーは、全く存在の次元が違いますね。

 

その全く次元の異なる存在が、本当の自分なのです。

ゲームの中のキャラかと思っていた自分は、本当はプレイヤーだったのです。

プレイヤーのほうこそ、本当の自分だったのです。

 

 

では、ゲームの中に居ながらにして、プレイヤーと通じることは可能でしょうか?

それを可能にする方法が「脱力」であり、「何もしない」であり、「無に還る」です。

 

キャラが自分勝手な動きをやめれば、自動的にプレイヤーが本来のプレーを取り戻します。

キャラは自動的に動き始めます。

 

ここで立場が逆転します。

 

「キャラの勝手なプレーを見守っていたプレイヤー」

から、

「プレイヤーの華麗なプレーを見守るキャラ」

へ。

 

キャラは動く立場から見る立場に変わります。

キャラは何もせずに、プレイヤーの繰り出す驚くべきプレーの数々を、ただ驚愕のまなざしで見守るだけです。

 

ゲームはキャラがやるものではありません、プレイヤーがプレーするものです。

 

ゲームの基本に立ち返りましょう。(笑)

 

人生はゲームです。

そしてゲームとは、プレイヤーがプレーするものです。

そしてプレイヤーとは、「本当の自分」です。

コメント

  1. sacchi より:

    おもしろい〜
    いつも読んでて元気と勇気が出ます。
    私も人生ゲームを楽しみ光りまっす♪
    ありがとうございます。

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