楽に生きる喜び

例えるならそれは、ガラス窓が汚れていて視界不良であるとか、パイプが詰まっていて、流れが悪くなっているとか、そういうふうにも言われますね。

心の中に詰まりが起こっていて、物事をありのままに見れない、ということです。

物事は、それがその通りあるままです。

そして、見る人によってさまざまに解釈され、吟味され、理解され、その人なりの「見え方」として、その人にはそのように見えます。

 

詰まりを解消し、汚れを落とし、視界良好、流れ快調にしようとすることがすなわち、我々の目指すところではないでしょうか。

視界良好、流れ快調であるとき、そこに問題はありません。何もありません。

その「何もない」という状態こそが、本来の状態といえます。

 

汚れを落とし、視界がクリアになると、見えてなかったものが見えてきます。

それは、汚れを落とさないと見えないものです。

汚れたままでそれを見ようとするのではなく、汚れを落とすことです。

汚れを落とせば、自然に見えます。敢えて見ようとしなくても、勝手に見えます。

目を凝らして頑張って見ようとするのではなく、それはきっとこうであるに違いないと勝手な想像を巡らすのでもなく、汚れを落とす。

そういうことだと思います。

手に入れようと頑張るのではなく、身を清める、心を正しくする。

それによって自然とそのような状態に落ち着く、ということですね。

 

汚れを落とすとは、余計なものを無くしていく、ということに近いと思います。

思わなくてもいいこと、考えなくてもいいこと、要らないもの、必要ないもの。

どんどん無くしていくと、結構無くなります。

そしてある時点で気づきます。

「あれ、何もないじゃん」と。

無くしてみると、「これは要るよね」と思っていたようなものでも、意外と要らないと気づいたりして、結局何もなくなります。

「無」です。

何もないわけです、結局。

なんにもないということに気づいてしまうわけです、結局。

なんにもないから、なんでもいいわけです。

 

汚れを落としていくと、何とも思わなくなってきます。

何を悩んでいたのか、もはや理解できないほどに、何とも思わなくなってきます。

無感動ではありません。

感動にすら何とも思いません。

そこに感動がある。ただそれだけです。

そこに喜びがあり、平和があり、楽しみがある。

ただそれだけです。

あるいは恐怖や不安や苦しみがあるかもしれません。

それもまた、それだけです。

ただ単に、それだけです。

 

ただ単に、それだけ。

それって何でしょうか。

それは余裕です。軽みです。簡単さです。取るに足らないことです。

それはすなわち、「楽勝」ということです。

人生は楽勝だったわけです。

汚れを落とすと、そんなふうに見えてくるのではないでしょうか。

 

コメント

  1. かし より:

    自分めちゃめちゃブログ書くやん発信してるのに自分が落ち着けばこんなこともうええわって思ったことないんすか?

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