何をやるかが大事なのではなく、自らパワーを生み出すことが大事です。
何をやるかにこだわって、たいしてやりたくもないことを無理やりなパワーで動かすより、自らの内から湧き出すパワーを流すことが大事です。
自らの内からパワーが流れてさえいれば、何をやるかは問題ではありません。
そのために、小さなことからコツコツと、パワーを発揮し続けることです。
「内なる声に従って、自らの意思で、その選択をした」という経験は、ものすごいパワーの湧出です。
たとえ小さなことであろうとです。
惰性で見ていたテレビをスパッとやめ、ずっと気になっていた部屋の掃除をしたとか、
太るからという理由を「もうええわ!」っとスパッと捨て、我慢していたアイスクリームを思う存分食うとか。
内なるエネルギーの湧出。
それに許可を出し切ったときの、歓喜とも深い満足ともつかない、何とも言えない充足。
死んでもいいとすら思える充足。
完全に生ききると、生への執着は薄れます。
もう生はやりきったのです。
完全に充足すると、もうどうでもよくなります。
生への執着とは、まだやり切れてない名残惜しさです。
生を完全に燃焼し続けていると、もういつ死んでもいいのです。
完全に満足しています。
生への感謝とともに、いつでも逝けます。
これをですね、「何をやるか」にこだわっていると、そうはいきません。
部屋の掃除にこだわって、見たいテレビを我慢して、しぶしぶ無理やり掃除を終わらせても、何のエネルギーの発揮にもなっていないのです。
「何をやるか」にこだわって、「出しているエネルギー」を間違えているのです。
この違いがわかりますか?
目に見える、やっていることが同じであっても、内容が全然違うということです。
同じ「部屋の掃除」であっても、内なるエネルギーの湧出によって気持ちよく行うか、内なるエネルギーの湧出を押さえつけ、無理やりなエネルギーで行うか。
この違いは、天と地の違いです。
目に見えるやっていることは同じでも、実際にやっていることは、180°真逆です。
同じ「アイスクリームを食う」でも、抑え込んでいた蓋を取っ払って、「もう死んでもいい」という歓喜と共に食べるか、「ああまた太る、自分ってなんてダメなんだろう」という罪悪感と共に食べるかでは、雲泥どころではない差です。
目に見える行動は同じでも、やっていることが180°真逆です。
だから、「何をやるか」にはこだわらないでください。
何でもいいんです。
それは何でもいいんです。
それよりも内からのパワーが流れているか、真の充足を感じているか。
そっちの「感覚」のほうに目を向けてください。
目に見える形は忘れてしまいましょう。
過去も未来も忘れましょう。
今この瞬間に、すべてを燃焼し尽くしましょう。
その時、何が残りますか?
すべてを燃やし尽くすと、何が残りますか?
何も残りません。
未練も、無念も、後悔も、何も残りません。
真の充足は、すべてを洗い流します。
もう何でもいいし、どうでもいいのです。
その空っぽこそが、真理です。
すべてを燃焼し尽くすと、もう真理すらどうでもいいです。
必死になって求めていた真理は、もうそんなもんどうでもいいとなったとき、初めて手に入ります、皮肉な話ですが。(笑)
求めていた充足は、自らの内にあります。間違いなく。
それは外に求めるのではなく、内から引き出すのです。
無限の預金が、自らの内にあります。
それを引き出すのです。
いくら引き出しても、尽きません。
いくらでもいくらでも引き出すのです。
文字通りの無限です。
字義通りの無限です。
いくら引き出しても、エネルギーは尽きません。
それは、宇宙の無限とイコールです。
正しいやり方を理解しましたね。
それは思っていたやり方の180°逆でしたね。
力は外にあるのではなく、内にある。それも無限に。
この事実を、ぜひ、あなた自身の目で確かめてください。
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