ひたすら観察すると起こること

ちょっと面白いことをやってみましょう。

何が起きても「ひたすら観察」です。

 

「今ドアが見えるな」「壁が見えるな」「今会いたくない人に会って目をそらしたな」「コーヒーが熱いな」「怒られて恐怖に震えているな」

 

観察しているとき、あなたは観察される対象ではなくなっています。

「観察されるもの」と「観察するもの」のポジションの違いがわかりますか?

 

観察しているときあなたは、観察されるものではありません。

観察しているとき、あなたはそれを「やっている側」ではなく、「見ている側」です。

つまり、やっていません。

 

観察しているとき、あなたは何もやっていないのです。

あなたが何かをやっているのではなくて、何かをやっているものを見ているものです。

 

そのとき「やっている」のは、誰でしょう?

誰でもないですね。

主体はいません。

物事は勝手に「起こって」います。

あなたは起こっていることを眺めています。

 

 

 

これをやると、どうなるでしょう。

物事から主催者が消えます。

それをやっている主体が消えます。

 

ひたすらひたすらやっていくとどうなるでしょう。

消えますね、自分が。今まで自分と思っていたものが。

 

観察とは「気づく」ということです。

 

目の前の見えるものに気づく。

聞こえるものに気づく。

考えていることに気づく。

湧き上がってきた感情に気づく。

気づく、気づく、気づく。

 

「気づく」というのは、偉大なパワーです。

気づくとき、気づかれるものからの移行が起こります。

今まで気づかれるものだった側から、離れるのです。

 

「痛い」とき、痛いそのものだったものから、離れます。

「快感」だったとき、快感そのものだったものから、離れます。

 

 

 

そこは何の否定もない場所です。

起こること全てを、ただ見ている場所です。

 

恐怖も、ビビりも、羞恥も、虚栄も、イライラも、自己否定も、怒りも。

あなたはそれらそのものではなく、それらを見ているものです。

それはつまり、それら全てを全肯定しているのです。

 

起こっていることを否定などしようがないのです。現に起こっているから。

何が起こってもOKです。

ただひたすら起こることを見るということは、ただひたすら起こることを全肯定です。

 

そこにいるとわかること。

肯定は否定の対義語ではない、ということ。

肯定に対義語は存在しません。

 

肯定しかないのです。

 

否定というのは幻想です。でっち上げられた幻です。

そんなものはありません。

実質は肯定しかなく、否定なるものは、観念の世界にしか存在しません。

 

肯定と否定は、存在する次元が全く違うのです。

餅そのものと、絵に描いた餅くらい違うのです。

それは全然、「あんころ餅」と「きなこ餅」のような同列な存在ではないのです。

 

 

 

ただ起こることが起こるように起こっているだけ。

肯定、肯定、肯定です。

「起こる=肯定」です。

 

それが起こっているという時点で、もうすでに肯定です。

現に肯定されているから、それが起こっています。

肯定されていないなら、起こっていません。

起こっているという時点で、すでに肯定です。

 

肯定がいいこととか悪いこととか、そういうことではなく、ただ肯定。

ただの肯定。

ただそうであるだけ。

つまる、つまらないの話ではなく、ただそうなだけ。

 

 

 

起こることにただ気づくということは、起こることをひたすら肯定するということ。

肯定は流すエネルギー。

ひたすらひたすら流す、流れる。

 

物事がひたすら流れるということは、順調ということ。

順調、順調、順調。

 

「気づく」という立場に立ったとき、物事は順調に流れる。

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