固定観念への対処法

固定観念、というものがありますね。

「これはこうである」とか、「こうであるべき」と思い込んでいることです。

それはあまりにも当たり前すぎて、それが固定観念であると想像すらできません。

 

会社には毎日出勤するもの、まわりには愛想よく接するもの、ご飯は一日三回食べるもの。

葉っぱが緑なように、空が青なように、それはあまりにも当たり前すぎて、省みる発想すらありません。

 

「苦しい」というのは、だいたいその固定観念と、自分本来の衝動とのミスマッチです。

 

したいようにしていれば、苦しいとかないはずですよね。

したいようにできないのはなぜかというと、固定観念が自由な動きを規制しているからです。

 

 

じゃあ固定観念を取っ払えばいいのかといえば、そういう話でもありません。

固定観念は取っ払うのではなく、無視するのです。スルーです。

そんなものはどうでもいいのです。

固定観念は、取り除くべきやっかいなもの、ないほうがいいもの。

そういう態度で接すると、それはその通り、やっかなものになります。

 

そんなものは無い前提。

どうでもいいし、相手にもしない。

 

その時それは、ありません。

 

「相対する」

これは疲れます、単純に。

問題に取り組む、やらなきゃいけないことをやる、正解に合わせる。

これらは疲れます、単純に。

疲れたいですか? といったら、疲れたくないですよね。

だから疲れない方法でやるという、ただそれだけの話です。

 

 

そして、「疲れる方法でやるべき」というのがまさに、固定観念の一つです。

疲れれば疲れるほど、やった気になれる、疲れれば疲れるほど、効果がある気がする。

頑張れば頑張っただけ、結果が良くなる。

苦しければ苦しいほど、未来は明るい。

 

これがいわゆる固定観念です。

要するに思い込みです。

それは事実ではなく、ただ単にそう思っているだけ、という話です。

 

このように、気づかない固定観念がたくさんあります。

 

我々がやるべきは、それらに対処することではなく、それらがどうであるかに関わりなく、シンプルに自分の行きたい方向に行く、ということです。

それらに取り組むのではなく、それらを抱えたまま、それらを身にまとったまま、それらを引きずったまま、単純に自分の行きたい方向に歩いていくということです。

 

他人が私の邪魔をするんだと、状況が私の行く手をさえぎるんだと、思わず取り組みたくなるでしょう、それらに。

それらを何とかしなくては前に進めない気がするでしょう。

 

しかしもうお分かりの通り、それらも固定観念です。

単なる思い込みです。

他人や状況は関係なく、あなたはあなたのやりたいようにすればいいし、実際そうできるのです。

 

つまり、我々は本来、自由なのです。

何をやってもいいし、どうでもいいのです。

 

 

「本来に還る」

 

つまり、我々がやろうとしていることは、それです。

あらゆる束縛から抜け出し、本来に還る。

その時、束縛に相対して剣を振るったり対策を練ったりするのではなく、ただ単に、自分の行き先に向かって歩いていく。

それが本来のやり方です。

 

敵に対して喧々諤々剣を振るっている時、あなたはちっとも前に進んでいません。

よく考えてみてください。

あなたは問題に取り組んでいる時、ちっとも前に進んでいないのですよ?

斬っても斬っても敵は次々と現れ、キリがありません。

つまり、永遠に前には進めません。

 

相手にしなさんな。

 

それらはほっといて、前に進みましょう。

 

「いや、敵の相手をしないと、こっちが斬られる」

 

なら斬られましょう。

斬られてもいいじゃないですか。

一体何を守っているんです?

斬られてまずいものって何ですか?

 

驚いたことに、斬られてまずいものなんて、何もありません。

自分は何も持ってないのです、斬られてまずいものなんて。

あなたが斬られてまずいと思っているもの、それこそが固定観念です。

「これは斬られるとまずい」と思い込んでいるものが、固定観念です。

 

つまり、堂々巡りです。

固定観念が固定観念の相手をし、観念上の戦いを繰り広げています。

観念の上で観念的なバトルが繰り広げられています。

 

リアルを見て!リアルを。

 

観念じゃなく、事実を見てください。

あなたはただ、自分の行きたい方向に行けばいいという、それだけです。

 

観念の中にいれば、観念がリアルとなり、観念上のリアルを生きることになる。

 

でありますから、あなたのそれは観念であると承知してください、まず。

あなたがリアルと思っているそれは、観念です。

あれも観念、これも観念、全部観念です。

 

じゃあリアルは一体何?となった時、それは、それ以外のものです。

全部観念なら、全部以外のものです。

 

「全部以外のものって何?そんなもの無いじゃん」と、こうなりますが、はい、リアルは「無い」のです。

つまり「無」こそが、リアルです。

 

無であるなら、何でもできますね、つまり自由です。

そこに束縛はありません。

リアルとはつまり、自由です。

 

自由である時あなたは、何をします?

ただ単に「それ」をするだけですね。

ただ単に、行きたい方向に行くだけですね。

 

どこにでも行けるし、何でもやれる。

それがつまり、真のリアルです。

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