完璧ということを知る

いま、そのタイミングでその人が通りかかった。

いま、そのタイミングで信号が変わった。

いま吹いているその風の温度、その速度。

いま現在のその体温、その気持ち。

 

全ては完璧であり、完璧ならざるものはありません。

なぜなら全ては「そう」でしかないからです。

その風の温度と速度は「そう」でしかあり得なかったし、その時の体温と気持ちは「そう」でしかあり得なかった。

 

決定的にそれしかない。そしてそれ以外にない。

その様を「完璧」と呼んでいます。

 

完璧は、好き嫌いとは違います。

そうでしかあり得ないその様については、好きであったり嫌いであったり、いろいろでしょう。

しかし、完璧と好き嫌いは関係ありません。

好きだろうと嫌いだろうと、全てはただ単に完璧です。

我々は常に完璧の中にいるし、完璧からは逃れられません。

 

 

そんな完璧である状態とは、ある意味当たり前です。

なぜならそれしかないので。

当たり前すぎて、そのことになかなか気づけません。

それは、当たり前に当たり前です。

ただ単に見ればいつでもそこにあります。

 

しかし人は、当たり前のことには、なかなか気づけません。

当たり前のことよりも、当たり前ならざること、もっとすごいこと、もっと素敵なことに目が行きます。

いま目の前にある当たり前よりも、いま目の前にない当たり前ならざるものに、意識が行ってしまいます。

 

なぜそう事実から目を背けたがり、なぜそう事実として無いものに目を向けたがるのか。

それは、事実がつまらないからであり、また、事実が気分の悪さをもたらすからですね。

つまらなさは見たくないし、気分の悪さも御免こうむりたい。

だから、事実は見ない。

 

しかし完璧さとは、つまらなさのことを言っているのではありません。

「つまらなさがそうでしかあり得ない状態としてそこにある様」のことを言っています。

「つまらなさ=完璧」ではありません。

全てがそうでしかあり得ない状態としてそこにある様が完璧なのです。

つまらなさや気分とは全く次元の違う話です。

 

見るべきはつまらなさや気分といった表面的なことではなく、その奥にある完璧さです。

つまらなさはつまらなさのままに完璧であり、気分の悪さは気分の悪さのままに完璧です。

全部完璧です。

その完璧さを見ましょうよ、という話です。

 

 

つまらなさや気分の悪さという表面にだけ目が行ってしまうのは、そこと周波数が合っているからです。

つまり、そこと周波数が合う、動物的な、エゴ的な視点に自分がいる、ということです。

神として、宇宙として、自然として、生きる命としての視点で見るとまた、それと同調したものが見えます。

自分と同列にあるものが見えます。

 

エゴの視点に立ってエゴ的に見ると、同じものがエゴ的に見え、宇宙の視点に立って宇宙的に見ると、同じものが宇宙的に見える。

「何が見えるか」は、見ている人の状態がそのまんま反映されています。

 

つまり、チューニングです。

周波数を変え、チャンネルを変えると、見えるものがまた違ってきます。

テレビと一緒です。

宇宙の完璧な運行を見るには、宇宙的な周波数にチューニングするとよいのです。

 

 

じゃあどうやって宇宙的視点にチューニングするのか? という話になりますが、宇宙的視点に思いを致すことが、すなわちそれです。

「宇宙的視点に立つ」という意図が、あなたをそっちに連れていきます。

「宇宙的視点に立つ」という意図や思いが発動した時点で、もうそっちに行っています。

 

自分が「そうである」と決めれば、それはそうなのです。

「自分は宇宙である」と決めれば、それはそうなのです。

そして、それを決めることができるのは、自分だけです。

 

なぜなら世界とは自分の中に展開している事象であり、自分の意図、思いは、その人の自由だからです。

世界は自分の思いたいように見れるのです。

というか、自分の思いたいようにしか見れないし、実際いつもそうしています。

自分が見たもの、捉えたものがすなわち、自分にとっての世界です。

 

「なんてつまらない世界だ」と思っている人に展開している世界は、実際つまらない世界です。

「なんて素敵な世界だ」と思っている人に展開している世界は、実際素敵な世界です。

寸分の齟齬もありません。

たとえ同じものを見ていても、「見えているもの」が全く違うのです。

 

目の前に何がどう展開していようとも、人はそれぞれ、その人なりの見方で、それらを捉えていますし、その捉え方によって、それぞれの世界が構築されています。

そして、その人がそのように思っているその見方、その捉え方を、誰も覆すことはできません。

誰がどんなに影響を及ぼそうとしても、結局決めるのは自分です。

自分がそう決めなければ、なにも動かないのです。

それが世界というものです。

 

だから、決めればいいのです。

どのような自分でも、決めればそうなります。

宇宙的な自分を選択してもいいし、エゴ的な自分を選択してもいい。

何でも自由に選択すればいいし、それは実際できるのです。

できないとしたら、「選択できない自分」を選択しているのです。(笑)

 

さあ、何でも自由に選べるなら、何を選びますか?

それは最も高級品でしょう、間違いなく。

100均の壺と人間国宝の壺、どっちを選ぶかと言ったら、それは国宝です。

それがすなわち、「宇宙」です。

だから宇宙的な視点をお勧めし、完璧さを見るようにお勧めするわけです。

 

宇宙は最善であり完璧です。

エゴは小さく不完全です。

そこに居て嘆いたり苦しんだりしているなら、宇宙という完璧な運行に同調したらどうですかという、そういう話です。

 

それは選べるのです。

そして選べるということを、よく忘れます。(笑)

だからこうして、何度も書いています。自分のためにも。

 

選択を放棄しないことです。

どうせ何もできないと思わないことです。

 

「何かをする」のは、難しいことです。大変なことです。

何か事業を成し遂げる、何か偉業を達成する。

物理的な動作は難しいし、とても大変なことです。

 

しかし「選択」は簡単です。

選ぶだけです。頭の中で。

それは「する」ことですらありません。

 

そうであると意図する。

 

それがすべての始まりです。

そして、それだけでいいのです。

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