選択を迫られる時の判断基準

人生には選択を迫られる場面がありますね。

というか人生は、選択の連続ですね。

どの席に座るか、何を注文するか、どういう言葉で伝えるか、いつにするか、どこにするか、そもそもやるのか、やらないのか。

いろいろな選択が目の前に迫ってきて、常に何かしらの選択をしています。

 

選択の時、何を基準に選択していますか?

気分であったり、計算であったり、誰かのアドバイスやどこかで仕入れた情報などが、選択の際の基準になります。

この時、絶対的な正しい基準があると、安心ですね。

いわゆるナビゲーションシステムです。

正しい場所への行き方を指し示してくれるもの。

 

それが「直感」であり、「内なる声」です。

 

正解は外にはありません。

必ず内にあります。

なぜなら、自分のことは自分にしかわからないからです。

この直感を磨くことがすなわち、うまく生きるコツです。

 

 

直感には理由がありません。

ですから、容易に丸め込まれてしまいます。

「なんでそうするの?こっちのほうが効率いいでしょう」とか、「こっちのほうが低コストだよ」とか言われると、ああ確かに、そっちのほうがいいかも、と思ってしまいます。

 

しかし、直感には理由があるのです。

 

なぜそう思ったのか、不思議じゃないですか。

理由もなくそう思ったって、不思議じゃないですか。

理由があるなら、わかります。

理由があれば、不思議でも何でもありません。

「効率がいいから」や「低コストだから」という、わかりやすい理由があれば、それは不思議でも何でもありません。

 

しかし、理由もなく「そうしたい」「そうすべき」という思いが湧き起こったって、不思議でしかありません。

この「理由のなさ」にこそ、理由があります。

 

なぜ雲は、あの形をしているのでしょう。

なぜ花は、そのような色と形で咲くのでしょう。

理由はありません。

それは「自然現象」です。

 

自分の中から湧き起こった「そうしたい」「そうすべき」という思いも同じく、自然現象です。

雲が流れるのと同じです。

花が咲くのと同じです。

自然な存在である人間の、自然な現象として、そのような思いが湧き起こります。

 

それは、人間が人間の頭で考えた「効率」や「コスト」とは、また別次元の発想です。

人間は、自然という大きな現象の、ごく一部です。

そのごく一部の狭い範囲だけに通用する発想と、自然という最も大きな範囲による発想は、自ずから違います。

そういうことです。

 

直感に理由がないとは、人間が頭で考えた、ごく小さな範囲には適合しないということです。

直感ではなく、頭で考えた理由を優先するとは、ごく小さな、狭い範囲で生きることを選択する、ということです。

あなたはどちらを選択しますか。

自然という最も大きな範囲で生きるか、それとも人間の頭というごく小さな狭い範囲で生きるか。

 

直感には理由があります。

ただその理由が、人間の頭では捉えられないということです。

 

 

深く、静かに、問うてみてください。

自分自身に。

そして、その直感なるものを意識の海からザバリと引き上げ、よく検分してみてください。

その無傷のツルリとした表面を、よく確認してみてください。

 

直感は無傷のはずです。

何の瑕疵もないはずです。

邪さが何もないから。

何の手も加えられていないから。

 

その強さを実感してみてください。

理由のないこの物体のたたずまいを、よくチェックしてみてください。

 

それに魅せられ、引き込まれるということは、つまりそういうことです。

それにはそういうパワーが備わっているのです。

そして、モノを言うのは、パワーです。

最終的にモノを言うのは、パワーです。

効率でもコストでもありません。

パワーが世の中を動かしています。

あるいは、世の中を動かす要素のことを、パワーと呼んでいます。

そのパワーを利用してはいかがかと、そういうことです。

 

世の中はパワーで動いています。

そのパワーは、自分にも働いています、当然。

私たちも自然の一部ですから。

そのパワーを引き出し、それを利用する。

それがうまく生きるコツです。

 

自然力という最も大きな力を利用する。

その自然力は、自分の中から湧き起こるものです。

本には書いてません。

テレビでも流れません。

ネットにも載ってません。

外のどこにもありません。

内にしかありません。

それは取り寄せるものではなく、湧き起こるものだから。

 

どこかに探しに行かなくても、答えは自分の中にあった。

パワーは自分の中にあった、というわけです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました