今あるものを、ただ観察しましょう。
今飲んでいるコーヒーの温度、味、カップの感触。
目に見える風景、行き交う人々、車。
頭の中をよぎる思考、感情。
それをただ観察しましょう。
それを文章で記述するような感覚でもいいかもしれません。
ただ第三者になって、ありのままを、伝えます。
そこに参加するのではなく、傍観者です。
そこに巻き込まれるのではなく、それを見ている人です。
ただそれだけです。
何も変えようとはしません。
「いいね」とか「嫌だなぁ」とか、感想も持ちません。
あるいは感想が浮かんだなら、それも記述します。
起こること全て、見えるもの、感じるもの全てを、ただ記述します。
ただひたすら、現状把握です。
人生をわかる、自分をわかる、世界をわかるとは、そういうことです。
人生がわかりたいなら、人生なるものを仔細に観察し、それを把握することです。
自分をわかりたいなら、自分なるものを仔細に観察し、それを把握することです。
世界をわかりたいなら、世界なるものを仔細に観察し、それを把握することです。
何かをわかりたいなら、それを観察し、把握することです。
人生を見失いかけたのなら、実際人生なるものがどうなっているのか、ただ把握すればいいのです。
自分を見失いかけたのなら、実際自分なるものがどうなっているのか、ただ把握すればいいのです。
把握すれば、わかります。
ストレートにわかります。
ダイレクトにわかります。
その間に何の解釈も意見も挟まず、ダイレクトにわかります。
コーヒーの温度は、「それ」として、直接伝わります。
「耳たぶくらいの温度」とか、余計な講釈無しに、ダイレクトに伝わります。
コーヒーの味は、「それ」として、直接伝わります。
「熟成した樽を搾り出したような酸味と苦味」みたいな余計な講釈一切無しに、ダイレクトに伝わります。
頭の中にやってくる思いは、「切なさ」とか「キュンとなる感じ」みたいな余計な講釈一切無しに、ダイレクトに「それ」として、伝わります。
ダイレクトな「それ」を、余計な講釈無しに、そのまんま把握するのです。
それを続けてください。
その立場に居続けてください。
居続けて居続けて居続けてください。
そこが住処になります。
そこに住んでください。
そこがあなたのお家ですから。
…
「それ」はただの「それ」。
何ともフラットです。
そのフラットな世界が、真実です。
山や谷は妄想です。
真実は、フラットです。
山に登りたいなんて、山なんてありませんよ。
谷に落ち込んだなんて、谷なんてありませんよ。
事実を見たらフラットですよ。
それはただ単に事実を見ればわかります。真っ平だって。
この事実を見ること、現状を把握すること。
それがスタートであり、ゴールです。
アルファであり、オメガです。
それは何かいいことが起こらないかなと期待することではなく、今あるものの享受です。
何かいいことが起こらないかなと期待することは、ないものを欲しています。
今ここにないものは、ありません。
当たり前すぎる事実です。
今ここにあるもの以外に、何が享受できますか?
今ここにあるものしか、享受できません。
だから今ここにあるものを享受します。
ただそれだけです。
単純です。
世の中みんな、何かいいことが起こらないかなと期待しています。
その期待がもたらすものは何でしょうか?
「苦しみ」です。
だってないもの。
今現に、ここにないもの。
欲しいけど、ない。
それは苦しみです。
そうはいっても、期待せずにおれない。
いいじゃありませんか、それも。
ただそれを観察すれば。
期待が起こった。
苦しみが起こった。
ただそれを観察すれば。
そしてその苦しみを享受すれば。
どうですか、そのテイストは。
悪くないでしょう。
「悪い」ってのは思い込みです。
純粋にそのテイストを味わえば、良いも悪いもありません。
ただ「それ」ですから。
コーヒーだって苦いのをあえて「うまい」といって飲んでいるわけですから。一緒です。
全ては享受です。
良いも悪いもありません。
ただ「それ」です。
それを享受する立場が、観察する、ただ見る、ということです。
だから、今あるものを、ただ観察しましょう、ということです。
生きるっていうことは、非常にシンプルです。
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