何か希望が叶ったとしても、そこに一抹の寂しさや空しさが潜んでいるということ、ありませんか?
思っていた通りの展開になった、望んでいた通りになった。
にもかかわらず、そこに一抹の空しさが潜んでいるとしたら、それはその結果が期待していたものと違った、ということでしょう。
望んでいたのは、もっと違うものだった、ということです。
希望する会社に入って働いてみた。うん、とても充実している、やりがいを感じる。
希望するお相手と付き合ってみた。うん、とても楽しい、満ち足りた気分になる。
でもこの一抹の空白は何だろう。
掴んでも掴み切れない、このモヤのようなもどかしさは一体何だろう。
楽しさ、嬉しさ、気持ちよさといったポジティブな感覚と、「幸せ」というものは、根本的に別次元のものである、という認識に至るかもしれません。
幸せを求めていたけれども、手に入ったのは気持ち良さだった、みたいな。
微妙に、しかしながら決定的に違うという、この違い。
それはある意味、あきらめたときに手に入る、という話は聞いたことがあるかもしれません。
いやむしろよく聞く話ですね。
追い求めていた時には手に入らず、あきらめた時に向こうからやってくると。
それはその通りだと思います。
「もういいや」というその瞬間、それは手に入っています。
その「もういいや」こそが、それです。
放擲し、ゼロになったとき、それは、そうなのです。
何も持っていない。純真無垢。
それこそが、それです。
追い求めるということと、向こうからやってくるということは、全く逆のことです。
追い求め、力づくで引き寄せるということは、無理があることです。不自然なことです。
放擲し、空っぽになった空間が満たされるのは、自然なことです。
すでに満たされているコップに水は注がれませんが、空のコップにはウェイターさんがツツッとやってきて、水を注いでいきます。
空であればあるほど、誰かがやってきて何かを注いでいきます。
それは自然の摂理、とでもいうようなものです。
それはとても自然なことです。
それは人間の感情の快・不快とは全く関係のない、自然の摂理です。
きっと、求めているのはそれです。
求めないということを、求めているのです。(笑)
何でしょうこれは、禅問答でしょうか。
求めないことを求めている時点で、それは求めているわけだから、求めないことは得られない。
求めないは求めることによって得るのではなく、求めないことによって得る、ということですね。
求めないはガマンではありません。
求めたいことを我慢したとしても、そこに求めたいがある時点で、すでに求めています。
求めたいを手放す、ということです。
求めたいを抑えるのではなく、解放する、ということです。
求めたいすらも放擲する、ということです。自由にしておく、ということです。
手放すと自由になれます、お互いに。
求めたいがどこに行こうが知ったこっちゃないですし、向こうもこっちに関知しません。
「どうぞご自由に」
お互いにです。
自由にしていいですよ、というとき、解放感を覚えます。
何をしてもいいですし、何をしなくてもいいですよ、という時、心の底から安堵を覚えます。
それこそが一番欲しかったものではないでしょうか。
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