本当の自分

人には、人生を良くしたいという願望があります。

望み通りにしたいという欲求があります。

 

そして、宇宙には宇宙の在り方があります。

宇宙はこのようにあるもの、という、変えられない在り方があります。

 

「宇宙の在り方」という変えられないもの、そして「我々の願望」という、この二つの要素。

これにどう折り合いをつけるかということに、我々は日々取り組んでいるわけですね。

宇宙の在り方という変えられないものの中で我々はどう、我々の願望を果たそうかと、日々試行錯誤を繰り返しています。

 

宇宙がそのようにある。

それは変えられません。

宇宙とは、起こることがポコポコと起こっている場。

そういうものです。

そこでは、我々の願望すら、起こっています。

ポコポコの一つとして、我々の願望も、「起こって」います。

そして、願望を果たしたいという願いもまた、ポコポコと起こっています。

 

ん?

待てよ。

 

「宇宙の在り方」と「我々の願望」は二つの要素ではなく、あるのは「宇宙の在り方」という一つの要素だけではないか?

我々の願望は、「宇宙の在り方」に含まれるのではないか?

 

そうですね。

全ては「宇宙の在り方」の一つであり、それ以外のものはありませんね。

 

 

この分離。

全ては宇宙の在り方の一つであるのに、それとは別個のものがあると勘違いしている様子。

これがいわゆる、苦しみですね。

 

本当は何も分離していないのに、分離しているという空想。

勝手にこしらえた空想で、勝手に苦しんでいるという事態が、勝手に起こっているという、この宇宙。

 

果たして我々はこの宇宙から逃れられるのだろうか。

事実を確認してみましょう。

 

事実として現に見えるのは、「この様」だけです。

いま現にある「この様」以外のものは、ありません。

いま現にあるこの様以外のものは、全て空想であり、その空想もまた「この様」に含まれます。

つまり全てが「この様」です。

あなたもこの場でその事実を確認してみてください。

 

全ては、この様です。

思考も、感情も、五感が捉える全ても。

この様から逃れられるものは、何一つありません。

あるのは「この様」。

ただそれだけです。

 

人生を良くしたいという願望、そしてその取り組み。

それは「この様」の一部です。

宇宙のポコポコの一つです。

苦しんでいようと、悩んでいようと、嫉妬していようと、劣等感に苛まれようと、それらは同列に、ただポコポコです。

 

これはただの事実であり、ただの事実以外のものは、ありません。

「そういうものがある」という思いすらただの事実なので、逆に言うと、あるものは全て事実です。

 

例えば「龍がいる」と思っている人がいるとします。

「龍がいる」は事実ではありませんが、「龍かいるという思い」は事実です。

そしてまた、もし本当に龍がいたなら、それは事実だし、「龍なんているわけないだろ」という思いがあるなら、それもまた事実です。

 

起こっている「この様」は全て事実であり、事実からは逃れられないのです。

誰が何を思おうと、誰が何をしようと、「そこにある」という時点で、全ては事実です。

それしかないのです。

 

そのそれしかないもの、どうしようもなくそれしかないものは、否定できません。否定のしようがありません。

なぜなら、否定すらそれの一部に含まれてしまうから。

否定すら、そこからは逃れられないから。

 

というこの様。

もう黙るしかないですね。

手も足も出ないですね。

黙って見てるしかないですね。

黙って見てるしかないのです。

それしかないのです。

 

というか、本当は黙って見ているのです。

だってそれしかないのは、いま見た通りでしょ?

本当は黙って見ているのです。

もがいている自分を、あせっている自分を、責めている自分を、本当は黙って見ているのです。

 

もがいている自分、あせっている自分、責めている自分は、本当の自分ではありません。

本当の自分は、別にいます。

それらを黙って見ている人です。

起こっていることを、ただ見ている人です。

 

もがく、あせる、責める、は、起こっています。

ただポコポコと起こっています。

それらはただ、起こっています。

 

なぜ起こることが起こり得るのか。

それは、それを見ている人がいるからです。

 

起こることが展開する場が提供されているから、それが起こり得ます。

起こることが展開する場がなければ、もがき、あせり、責めることは、できません。

それらが起こっているように見えるということは、それを見ている人がいるということです。

 

その見ている人が、本当の自分です。

本当の自分は、いつでもいるのです。

もがき、あせり、責める自分は、いたりいなかったりしますが、本当の自分はいつもいつでもいます。

いなかったことなど、ありません。

本当の自分がいなければ、そんな風にもがく自分も、あせる自分も、責める自分も存在できないのですから。

 

本当の自分は、いつもいつでも、ここにいます。

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