無自覚の自覚

恐らく最も大事なことは、お金を稼ぐことでもなく、有名になることでもなく、自分自身を見つけることだと思われます。

自分がわかりさえすれば、それに勝る幸せはないでしょう。

 

自分とは何なのか。

 

逆に、自分を完全に把握すればするほど、有名になり、お金も入ってくるでしょう。

入ってこないかもしれませんが。(笑)

 

自分自身であることの安心感、至福。

これを見つけたいと、人は思います。

これこそが、全人類が目指している目標です。

 

 

自分ってなかなかわかりにくいですよね。

「私ってこういう人なの」

そんな風にも言いますが、それは一面的な話であり、人は「こう」だと断定できるものではありません。

 

そう。

「何でもない」のです、実際のところ。

「何」と決めることができない存在です。

その「何でもない」を理解するということが、自分を理解するということです、ある意味。

 

自分とは、毎瞬起こります。

それは自分でも決めることができません。

それは「起こる」ことです。

そのことを理解するということが、自分を理解するということです。

 

「決める」ということは、死ぬということです、ある意味。

決めてしまうということは、「止める」ということです。

呼吸が止まるのです。

生き生きとした生命の躍動が失われるということです。

 

今起こることを、そのまま起こらせる。

それがすなわち、「生きる」ということです。

何かを決めて、決めた通りにやる、ということではありません。

 

「起こることを見守る」

そんな感じです。

我々は何もやってないのです。

その立場に立った時、世界の見え方が変わります。

 

起こることを見ることは、楽しいことです。

一種のエンターテインメントです。

めくるめくワンダーランド。

 

ディズニーランドにいかなくても、そこはディズニーランドです。

景勝地に出かけなくても、そこは景勝地です。

目の前にすでに展開してます、めくるめくワンダーランドが。

つまらないや退屈も含めて、ワンダーランドです。

捉え方だけです。

立場だけです。

 

それは、面白く見ようとか、楽しくいようとか、そういうふうになるように努力するのではありません。

なんの努力もしないのです。

楽しかろうが面白くなかろうが、そのまま見るということです。

そのダサさを、怖さを、不安を、そのまま見るのです。

それはそのまま何の変更もなく、エンターテインメントです。

 

ダサさ、怖さ、不安の渦中にはいません、それを眺めているのです。

眺めてしまえば全部一緒です。

何が一緒かというと、それを眺めている立場です。

目の前に展開している物事はいろいろでも、それを眺めている立場は一緒です。

 

その一定感。

それがすなわち、安住の地であり、我々が本来いる場所です。

 

そこにいると、どうなるでしょうか。

楽しくなります。(笑)

何が起きても安心だから、安心して何でも楽しむことができます。

 

展開するいろいろに同化すると、展開という不安定の渦に巻き込まれるので、しんどくなります。

しかし、渦に巻き込まれるのではなく、渦を眺める立場にいれば、苦しいことはありません。

 

それとこれは、無関係なのです。

恥ずかしい出来事も、恐ろしい出来事も、全部自分とは無関係なのです。

自分事であっても、「へー、そうなんだね」と、他人事です。

今までの「自分」なるものが無いのです。

何も所有しないのです。

恥も名誉も、お金も地位も、モノも人間関係も、どんな感情もどんな考えも、何もなにも所有しないのです。

一切何も持たないのです。

無です。

何も自分とは一体化していません。

 

無である時に、物事はそこに吸い寄せられてきます。

あたかも無を埋めるように。

無である時に、全てはうまくいきます。

全て、整うのです。

 

 

自分とは無であるということが、結論です。

その無に全ては吸い寄せられて、物事はうまくいきます。

 

無である自覚は、無自覚です。

物事がうまくいく時は、無自覚です。

決して「うまくいかせよう」という自覚によって、うまくいくのではありません。

 

無自覚を自覚する。

それがつまり、最大の秘訣です。(笑)

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