ある種シリーズ化しているので、このエントリーから順番に読むと、よりわかりやすいと思います。
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つまり、「何」ではない、ということです。
どんな家に住み、年収いくらで、どんな相手と暮らし、どんな趣味を持ち、といった「何」ではないということです。
だいたいみんな、「何」にこだわります。
年収、年齢、職業、容姿。
「何」にものすごく捕まっています。
捕まっているという自覚すらないほどに、捕まっています。
「何」がめちゃくちゃ気になりますよね。
もっと若かったらいいのにとか、もっと収入があったらいいのにとか。
「そんなの当たり前」と思うかもしれませんが、それは全然当たり前ではありません。
当たり前だと言わされてしまうレベルで、浸透しているだけです。
それは本来、全然当たり前ではありません。
当たり前なるものは、何もありません。
それこそがむしろ、当たり前です。(笑)
当たり前のポジションに「何か」が鎮座しているその状況こそが、おかしなことです。
「それって当たり前」「これはもちろん当たり前」
いえ、当たり前のポジションに何もないのが当たり前です。(笑)
何かが当たり前になっているというその時点で、もはやオカシイです。
それはつまり、当たり前の範疇で生きてしまうということです。
「不自由」ということです。
現にみなさんは、不自由を感じていますね。
本来何も無いところに自ら縛りを作って、自ら不自由になっていますね。
そして自ら縛りを作っているということに、気付けないでいますね。
なんでこんなに苦しいんだと、その苦しみは理解できるのですが、その苦しみの原因を自ら作り出していることには、全く気付けないでいます。
なので、気付きましょう、単純に。
苦しいというのは「何かが違う」という感覚です。
何が違うのかと言うと、自らの価値観と、現状の自分とのギャップです。
しかし、その価値観なるものは、勝手に自分が採用しているだけです。
事実は「無」です。
何もありません。
何も無い空間に、あれはこれ、それはこれと、勝手に「何か」化しているのです。
本来は「何もない」です。
根本的な解決は、「何か」をやめて別な「何か」にするのではなく、そもそも「何か」をやめてしまう、ということです。
「何か」をやめて別な「何か」にしても、結局は堂々巡りです。
全部やめてしまうのが、シンプルかつ根本的な解決です。
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何かこれは、タバコをやめる、みたいな「今までの習慣を変える」という感じでもあります。
今までそれで生きてきた習慣をやめる、という。
タバコって、もともと吸ってたわけじゃありませんね。
人生のある時点で吸い出して、そしてやめれなくなったと。
生まれた時から吸っていた人なんていません。
もともとは「無かった」わけです。
もともと無かったものが、人生のある時点で登場し、そしてそのまま人生の一部になってしまったと。
これは、固定観念や思い込みといった、今現在「当たり前」になっていることにも通じます。
その「当たり前」は、生まれた時から当たり前ではありませんでした。
それこそ本当の「当たり前」ですね。(笑)
生まれた時は何もなかった。
それこそ究極の当たり前です。
今、個人同士の当たり前や、国同士の当たり前がぶつかり合う世の中ですが、そもそもそんな当たり前はありませんでした。
その当たり前は、全部後付けです。
それこそが「当たり前」です。
いま、何かを当たり前としている、その後付けの当たり前が吹っ飛んで霞んでしまう、究極の当たり前。
それが「何もない」です。
もともと何もないじゃないですか。
生まれた時からタバコは吸ってなかったじゃないですか。
生まれた時、結婚は当たり前とは思ってなかったじゃないですか。
生まれた時、お金が全てとは思ってなかったじゃないですか。
生まれた時は何もなかったじゃないですか。
「何もない」こそが、本当に当たり前と言える唯一のことじゃないですか。
と、いうことです。
今まで慣れ親しんだ固定観念を捨てることは、タバコをやめるのと同じくらい難しいかもしれません。
しかし、タバコはもともと吸ってませんでした。
その固定観念は、もともとは持ってませんでした。
タバコをやめる、もとの自分に戻る。
固定観念を捨てる、もとの自分に戻る。
「もとの自分に戻る」
これが究極の解決です。
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