前回、「大事なものはない」という話をしましたが、同様に、「悩み」もありません。
悩みは、それに「悩み」なるレッテルを付したものであって、「悩み」なる絶対的なものはありません。
付される前のそれは、「何でもない」です。
大事なものもない。悩みもない。
「軽い」ですね、そんな人生。
「何でもない」って軽いんです。
逆に、重さ、事の重大さ、重々しい空気。
そういうものは全て、「付しているもの」です。
付しているものに、重さがまとわり付いているのです。
「何でもない」は何でもないわけですから、空気より軽いのです。
「何でもない」は何でもないがゆえに、重さはありません。
そして、付しているものは絶対ではなく相対なので、何にでも変わり得るし、何とでも捉えられます。
つまりそれは、気分のようなもので、実体はありません。
実体は「何でもない」です。
その上にのっかっている「付しているもの」は、コロコロ変わります。
それは実体の上に纏った気分みたいなもので、言ってみればまやかしです。
実体は「無」しかありません。
我々は普段、まやかしの中でまやかし的に生きています。
事実、大事なことも、悩みもありませんでした。
それどころか、なんにもありません。
何もない人生。
心に何も掴んでいない。
スースーと開け放し、あらゆるものが自由に行き来する心。
それってつまり、「軽い」のです。
「軽み」の世界
この「軽み」。
松尾芭蕉晩年の境地とも言われますね。
また、霊魂が肉体から抜ける時、マンガなんかでは必ず上へと浮遊していくように描かれますね。
地中へとめり込んでもいいはずなのに、必ず上へ浮いていきます。
人間の実体である霊魂は、軽いのです。
何しろ実体は、「無」です。
どんな重さもない、無です。
無から有へ、有から無へ
無から生まれ、無に還る。
これは、量子力学でも実証されていることです。
無から最初の粒子が発生し、複雑な組み合わせを得、その後分解され、最終的に無に還る。
我々が物質と見ているあれやこれやは、「無」の見え方の一種です。
素粒子、その組み合わせ、そのバリエーション。
思考、シナプス結合、宇宙から原子・分子まで、目に見える全て、考えうる全て。
「全て」は、無の無限のバリエーションです。
無という万華鏡がくるくる展開して、無限のバリエーションを見せているのが、この世界です。
「意味」のない人生
万華鏡は、おもちゃです。
おもちゃは、遊びの道具です。
人生とは、遊びに近いのです。
意味なんて無いのです。
万華鏡のその絵柄に、意味なんてないのです。
「この絵柄の意味は、前世のカルマが云々…」とか「あなたの運命は、この星巡りから言って云々…」とか、そんなものありません。
ただの絵柄です、ただの無意味な模様です。
意味なんて無意味です。(笑)
そこにあるのは意味ではなく、感動やフィーリングや感覚です。
「うわー、この絵柄素敵!」とか「あはは!この絵柄ウケるね!」とか、そういうものです。
ただ感じることを最大限満喫すればいいのです。
人生なんて、それだけです。
意味とかないから。(笑)
軽みです。
浮かれていいんです。
浮かれるのが人生です。
我々は浮かれるために、生まれてきました。(笑)
無から生まれた我々は、再び無に帰します。
浮かれることは、無に近づくことです。
軽くなればなるほど、無に同調します。
実体である無に、どんどん近づいていきます。
無であればあるほど、万華鏡はますます展開します。
重さは展開力を低下させます。
回せ回せぐんぐん回せ。
そしてその模様を、その展開を、ただ楽しめ。
喜も怒も哀も楽も、全部まとめて楽しめ。
軽みにいるとき、怒もまた楽し。
「テメー!コノヤロー♪」なんて。
軽い時、結構すべては笑っちゃう。
健康のために笑いが奨励されたりしますが、それはもちろん、軽みとの同調、無との調和。
笑う時わりと「なんでもええわ~」という気分になりますね。気も大きくなる。
気の大きさは、器の大きさ。
器の大きい人間は、よく笑う。
そして、楽しい人に、人は集まる。
全てのもとは、「軽み」。
軽いのです。
軽みは無との同調。
存在の根源への回帰。
宇宙と同調すると、楽しいのです、勝手に。
そういう風に出来ているのです、宇宙が。
楽しむことは、宇宙の要請
楽しみたいというのは、人間の根源的な欲求です。
そしてその欲求とはつまり、根源へ還りたいという欲求です。
無から生まれて、無へと還る。
無へと還りたい欲求は、人間の本然に内蔵されています。
それは人間の必然と言っていい。
だからその欲求に従うのは、宇宙の流れに同調するということ。
楽しむことに、遠慮はいらない。
それは、量子力学が保証しているから。(笑)
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