天国は何か修行僧のように、世間との関わりを絶って、一人で内に籠るような印象があるかもしれませんが、どんな印象も当たっていません。
物質的な豊かさに満たされるかもしれませんし、そうではないかもしれません。
独りかもしれませんし、大勢かもしれません。
現実世界での見え方は、様々でしょう。
しかし、天国は外ではなく内なので、外の状況については、もうあまり気にしません。
そっちについては、なるようになります。
放っておいても、なるようになります。
なんだ、放っておいてよかったんだ、となります。
逆にごちゃごちゃと手を下すから、うまくいっていませんでした。
放っておいた方が、逆にうまくいきます。
何もしなくてよかったのです。
内にいると外のことはどうでもよくなるので、自然と放っておきます。
すると、勝手にうまくいきます。
うまくいかせようと力んだり頑張ったりヤキモキしなくても、勝手にうまくいきます。
それは、うまくいかせようと思ってうまくいかせたという「うまくいく」ではなく、どっちでもいいという認識状態によって、いま現に展開しているそれをそれでいいと認める「うまくいく」です。
それでいいと認めれば、それでいい状況が展開されます。
なにしろ、いま展開しているそれが、すでにそれでいいので。(笑)
先にそれでいいという状況が展開され、その後にそれでいいと認めるのではなく、その逆ということですね。
要は、認識が先でも展開が先でも、どっちでもいいのです。その無限ループが回り出しさえすれば。
今までは、うまくいかない現実を見て気分が悪くなり、その悪い気分がさらにうまくいかない現実を呼ぶという、負の無限ループでした。
今回は、それでいいという認識によって、それでいい現実が展開され、それによってさらにそれでいい感が深まるという、正のループです。
その発端となる「それでいい感」は、天国にいることによって、発生します。
現実世界にいては、それはかなり難しいです。
なぜなら現実とは、外に気を取られることだからです。
外に気を取られていては、なかなかそれでいいとは思えません。
それは皆さんが、毎日経験済みだと思います。
部下は言うことを聞かないし、上司からはガミガミ言われるし、友達からは愚痴ばかり聞かされるし、家族からは文句ばかり言われる。
とても「それでいい」とは思えません。
それを直に、ダイレクトに受け止めていたら、とてもそれでいいなんて思えません。
現実世界にそのままいたら、それはほとんど不可能なことです。
天国世界ではどうでしょうか。
そこは180°逆の世界です。真裏の世界です。
そこでは他人は、いるけれども、いません。
見えているけれども、見えていません。
聞こえているけれども、聞こえていません。
みなさん、ガミガミわーわー言っているけれども、何も聞こえません。
次元が違うので、透明人間のように通過します。
外の世界での出来事は、勝手に行われています。
勝手に進行します。
勝手に展開します。
万華鏡を見ているかのように、勝手に展開します。
万華鏡をこじ開けて、中のビーズの配置をあれこれいじり回すようなことはしません。
万華鏡は勝手に展開し、勝手にきれいな景色を見せてくれます。
「ほー」とか「はー」とか言いながら、そこに展開する景色を眺めているだけです。
何もしません。
天国は何もしないところです。
汗にまみれてあくせくワタワタするのは、下界の人のやることです。
天国は何もしないところです。
何もせず勝手に、綺麗な風景が展開するところです。
無努力、無抵抗、無制限、無軌道。
「無」の世界です。
そこにはどうすれば行けるのか。
やめればいいのです、単純に。
無くせばいいのです、単純に。
そこは無の世界、何もしない世界です。
無はみんながもともと持っているもの。
無の上にあれやこれやのごちゃごちゃが展開してきました。
それが現実世界です。
全てのベースが「無」です。
だから全員が、天国への招待状を持っているのです。
例外なく全員が、持っているのです。
行きたいときに、そこへ行けるのです。
全員が招待状を持っているから。
文字通り下界を離れるのです。
現実世界を離れるのです。
全て捨てるのです、全て無くすのです。
そこは自分の中心。
外のどこでもない場所とは、自分の中心だけ。
それが自分の本質。
外見でも性格でもない、名前でも肩書でもない、本当の自分。
つまり、天国とはイコール本当の自分。
そりゃあいつでも行けるわけです。
24時間365日、いつでも門が開いているわけです。
門は開け放しのまま、みなさまのご来場を心よりお待ち申し上げているわけです。
コメント