人はよく「幸せになりたい」と言いますが、では幸せとは何でしょう?
楽しいこと、嬉しいこと、美味しいこと、気持ちいいこと。
そんな感じでしょうか。
でもそれは、楽しいこと、嬉しいこと、美味しいこと、気持ちいいことであって、「幸せ」とはちょっと違いますね。
それらが手にはいると「幸せ~♡」っていう気持ちになるかもしれませんが、それら自体が幸せかというと、ちょっと違いますね。
みなさん幸せというものを結構漠然と捉えていますが、実際「幸せ」とは何でしょう。
…
幸せとは言ってみれば、「嫌なことがひとつも無い状態」と言えるのではないでしょうか。
嫌なことがひとつも無い、何のわだかまりも無い、何かが欠けた感覚がない、満たされた状態。
何の引っかかりも躊躇も無く、全てがスムーズ、全てが円満。
全てがOKで何の問題も無い。
どうでしょう。
そうなれたら、それこそ「幸せ」ではないでしょうか。
楽しい時、嬉しい時はそんな状態になりやすいのかもしれません。
だから楽しい時、嬉しい時には「幸せ~♡」と感じるのでしょう。
では、楽しくない時、嬉しくない時でも、幸せでいることはできるのでしょうか?
それは可能性としてはできますね。
楽しくなくても、嬉しくなくても、「嫌なことがひとつも無い状態」であることは可能です。
いやむしろ、可能性だけで言うならば、それは苦しい時、つらい時でも可能です。
苦しくても、つらくても、それをイヤと思わず、それで何の問題も無いと思えるなら、幸せです。
つまり、楽しい時、嬉しい時は、幸せを感じやすく、苦しい時、つらい時は感じにくいけど、実際のところ「楽しさ、嬉しさ、苦しさ、つらさ」と「幸せ」は関係ない、ということです。
その時あなたの気持ちがどうであろうとも、幸せかどうかには関係ない、ということです。
言い換えると、あなたは気分や状況に関係なく、幸せになれるということです。
…
さて、幸せは「嫌なことがひとつも無い状態」と言いましたが、それはどのようにすれば手に入るのでしょう?
実は世界はすでにそうなのです。
世界はすでに、嫌なことは何ひとつ無いのです、実質において。
ただ、個人個人が、「あれがイヤだ、これがイヤだ」と勝手に言っているだけなのです。
世界の実質は、「ただそれ」です。
よく考えてみたら、世界は「ただそうである」だけです。
例えば、「あの人が私にすごく嫌なことを言った」という出来事があった場合。
それは実際は「あの人が私にすごく嫌なことを言った」ではなく、「あの人がしゃべった言葉を私がすごく嫌だと受け取った」です、実質において。
事実は、「あの人がしゃべる」という現象です。
そしてその現象に対して私に嫌な気分が起こった。
その「私に嫌な気分が起こった」もまた、そういう現象です。
事実を客観的に見ると、好きも嫌いもなく、ただひたすらそういう現象があるだけです。
でも、あなたの中での解釈は違います。
「あの人が、私に、嫌な言葉を、しゃべった」です。
あの人の言葉は、すでに「嫌な言葉」です。
ただの言葉は、すでに「嫌な言葉」に変換されています。
おそらく、日本語を解しない外国人や宇宙人が聞いたなら、ただの音声だったかもしれないその言葉は、あなたというフィルターを通すことによって、「嫌な言葉」に変換されています。
つまり、ただそうであるだけの世界を、個人個人のフィルターによって、良いだの悪いだのに変換しているのです。
もともとの、ただそうであるだけの世界には、何の問題もありません。
つまり、我々はもともと、何の問題も無い世界に住んでいるのです。
もともとは幸せ、ということです。
もともとの幸せを覆い隠すように、そうではない状態を自ら作り出しているのです。
(なんでそんなことになっているのかについては、こちらをどうぞ↓)
…
では、もともと問題のないものをこっちが勝手に良いと思ったり悪いと思ったりするのはダメなのか? といったら、そんなことはありません。
あなたが「良い」と思うことも、「悪い」と思うことも、やっぱりただのそれです。
それもあくまで、ただの現象です。
全部です。
全部がただのそれです。
全部がただのそれという世界の真実が腑に落ちた時、あなたは幸せです。
苦しくてもいいんです、つらくてもいいんです。
それも全部「ただのそれ」であって、問題ないんです。
すると、「そうだ、苦しくてもOKなんだ」と、苦しいのをやせ我慢して無理矢理それでOKと思い込む、みたいな発想も生まれるでしょうが、それも結局もともとの幸せを覆い隠す自作自演だということがわかりますでしょうか?
再三言うように、全部です。
全部、どこまでいっても、それはそれでしかありません。
つまり、苦しんでいるのは全部、自分で勝手に苦しんでいるのです。
世界は全てただのそれであって問題ないという事実を知っても、それでもまだ、自ら苦しみを選択しているのです。
もちろん、それはそれで何の問題もありませんが。(笑)
苦しいのをやせ我慢して無理矢理それでOKと思い込む、というのは、独り相撲です。
自分からそんな苦しい選択をする必要はないのです。
もちろんしてもいいですが。
…
世界は全部、ただのそれです。
ただのそれに対するあなたの反応も、ただのそれです。
ただのそれに対するあなたの反応に対するリアクションも、ただのそれです。
ただのそれに対するあなたの反応に対するリアクションに対する反省も、ただのそれです。
ただのそれに対するあなたの反応に対するリアクションに対する反省から生まれる気付きも、ただのそれです。
どこまでいっても、ただのそれ。
つまり、この渦に巻き込まれるのではなく、それを上から眺めるのです。
この延々ぐるぐると渦巻いている渦に巻き込まれるのではなく、それを上から眺めるのです。
「そうだ、苦しくてもOKなんだ」と、苦しいのをやせ我慢して無理矢理それでOKと思い込む、みたいなことは、渦に巻き込まれているということです。
それを上から見ると、それもやっぱり「ただのそれ」です。
それを眺めるポジションにいましょうよ、という話です。
そこにいれば、全てはただのそれに見えます。
怒ろうと、ゴネようと、歓喜しようと、落ち込もうと、全部ただのそれ。
もうそれについてどうこうしようとは思わなくなります。
ただそれをそれとして認めるだけ。
それについてもう、どうこうしようと思わない。
全てあるがままでOK。
つまり、嫌なことが何ひとつ無い。
イコール「幸せ」、です。
…
別の言い方で言うと、幸せとは、「それで良さ」です。
全てにおいて「それでいい」と思えることです。
横取りされたとしても、それでいい。
ムカッっときて腹が立っても、それでいい。
お茶をこぼして「アチチッ!」ってなっても、それでいい。
「コンチクショウ!」と思っても、それでいい。
大好きな恋人にフラれても、それでいい。
何日も何ヶ月も泣き続けても、それでいい。
「それでいい」にいるとき、あなたは安心です。
何をやってもどうであっても「それでいい」って、究極の安心じゃありませんか?
人はきっとこのことを「愛」と呼びたくなるのでしょう。
上から眺めているとき、あなたはそこにいます。
そしてそこにいるとき、物事は勝手に起こります。
そこにいるとき、あなたは「見ている人」であって、「やっている人」ではありません。
物事は勝手に、起こります。
「それでいい」から起こる物事は、当たり前ですが「それでいい」です。
あなたが「それでいい」と思える出来事が、起こります。
これってなんでしょう。
あなたならこの状況を何と呼びますか?
「幸せ」?
そうですね。(笑)
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