思考と一体化しないこと。
これが実に大事です。
我々の人生は、ほとんど思考に乗っ取られていると言っても過言ではありません。
勝手にやってきて、勝手にワイワイやっている思考に乗っ取られているのです。
考えてみてください。
ほっとんどの時間、何か頭の中で考え事していませんか?
大抵の人はそうでしょう。
しかし思考はあくまで「思考」です。それは「あなた」ではありません。
思考を分離すると、どうなるでしょう。
分離するとはつまり、それとは一体化せずに、離れてそれを眺めるということです。
あまりの何もなさに、ゾッとするのではありませんか?
いままで思考に囲まれて、思考の中でぬくぬくと育ってきたわけですから、それをスポンと脱いで素っ裸になるのは、とても心細い感じがします。
しかしその心細く思っているのも思考です。(笑)
事実は「無」です。
何もありません。
心細さも不安も、もちろん喜びも悲しみも、感情も感覚も何もありません。
それがただそれとしてあるだけです。
無粋といえばこれ以上の無粋はありません。
空虚といえばこれ以上の空虚はありません。
誰にとって?
それはもちろん「思考」にとってです。
「無粋」「空虚」と感じるのは、思考です。
思考は常に、何かあって欲しい、満たされていたい、素晴らしくあって欲しい、など「何かを求める」ものです。
「何も無い」など耐えられません。
思考にとどまる限り、無思考は恐怖でしかありません。なにしろ自身の死ですから。
では、無思考である時にそこにあるものは何でしょう?
無思考ですから、それは捉えられません。
考えた途端、それは「何か」になってしまいます。
それは思考がデッチ上げた「何か」です。
思考による「何か化」をしないこと。
それらをそれらのままにしておくこと。
それは「自由」です。
なにも縛るものがありません。
なにも固定化するものがありません。
それらは自由に、ありのままです。
思考による「何か」への変換がなければ、それらは自由にそのままです。
そのとき自他の分離はありません。
「見ている人」と「見られているもの」という分離はありません。
ただ「それ」があるだけです。
すべては「何も無い」にひとつになります。
「何か」への変換がなければ、すべては「何も無い」においてひとつとなります。
これ以上がありますか?
「何も無い」以上がありますでしょうか?
何も無いが空しいと思うのは、思考による妄想です。
この点、議論は無駄です。
「何も無い」が何であるかを議論することは無駄です。
何も無いを議論することは、何も無いを何かにする試みです。
それはすでに「何も無い」ではありません。
思考で考えても、「何も無い」はわかりません。
「何か」にするのが思考ですから、わかるはずもありません。
何も無いは思考の外で体験するしかありません。
いままで思考の中で生活してきたから、そんなこと不可能と思うかもしれませんが、思考と一体化せずに、離れてそれを眺めるということはできます。
勝手にやってきて、勝手にワイワイやっている思考を、外から眺めるのです。
そして思考を「見る」ことができるなら、そこはすでに「思考の外」です。
というわけでまず、思考と一体化しないこと、思考を眺めるポジションに立つこと。
そこから始めましょう。
というか、そこは「始まり」であると同時に「終わり」です。
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