現実は複雑で広大で難しく、とても把握しきれる気がしません。
そんな中で生きることは、とても複雑で難しく、大変な人生です。
でも「真実」は、シンプルで簡単です。
楽でスムーズです。
我々は、現実を見ながら生きるよりも、真実を見ながら生きるべきです。
現実に生きるのではなく、真実に生きるのです。
真実はシンプルで明快です。
スッキリと気持ちよく、何の複雑さもありません。
人生は単純になり、楽になり、楽しくなります。
ただシンプルに、真実を把握しましょう。
そのためには、たびたび思い出すことです。
現実の複雑さに飲まれてしまったら、その都度、真実を思い出しましょう。
真実をしっかりと、見据えましょう。
真実の中に、居続けるのです。
…
真実とは何でしょうか。
それは「無」です。
何でもない、ということです。
あなたは無を受け入れることができますか。
「何でもない」ということを、受け入れることができますか。
何にもしがみつかず、何も掴まず、ただ全てを開け放しておくことはできますか。
それが無に生きるということ、真実に生きるということです。
真実は無の中から生まれます。
無の中に居ることによって、そこから真実が湧き上がります。
それが、本来あなたが生きるべき人生です。
本来の人生は、努力によって作るものではなく、自然に湧き上がるものです。
そのためには、全てを放棄することです。
放棄するからこそ、あなたの意思やしがらみという「限定」から解放された、本来の無限が湧き上がります。
喜びだろうと苦しみだろうと、それにしがみついてはいけません。
…
全てを放棄する勇気。
それは死をも恐れない心境です。
死は「失う」ということです。
そういう意味で我々は、生きながらちょいちょい死を経験します。
お金を使うこと、パーティーが終わること、学校の卒業、親しい人の喪失、失恋、失業。
身近なもの、大切なものを無くすのは、一種の「死」です。
我々は日々、そんな小さな死を経験しながら生きています。
一般的には痛みを伴うそのような死を、無の中に放棄してしまえる態度。
それらを何でもないこととして、本来の何でもないの中に居続けること。
それは、自らの命にすらしがみつかない態度です。
(もちろんそれは、生存本能を無視するということではありません)
そんな死を恐れない態度は、本来の生き方です。
死は怖いものではありません。
一般的に死が「怖い」と思われているのは、未知のものに対する恐怖と、生への愛惜から来ています。
未知のものに対する恐怖は「未来」への不安であり、生への愛惜は「過去」の蓄積に対する執着です。
未来への妄想をやめ、過去への執着をやめ、「今」に生きるなら、それは本来の生き方です。
そこに死の恐怖はありません。
「今」に生きるなら、日々経験するどんなレベルの死も、怖いものではありません。
それは一般的な生き方とは真逆の態度ですね。
…
そのことによって得られるものは何でしょう?
それは「自由」です。
全てを放棄すること、全てを失っても構わないという心境は、自由です。
あなたを縛るものは、何もありません。
着目するなら「恐怖」のほうではなく、「自由」と「爽快」に目をやるべきです。
放棄によって失うものではなく、放棄によって得られるものに、目をやるべきです。
それは真にあなたが欲しているものですから。
自由に生きるということは、真実を生きるということです。
何も縛るものがない、限定するものがない、決めつけるものがないからこそ、自然と、自由に、真実が浮かび上がります。
そのときあなたは、本来のあなたになります。
人生において、本来の自分を生きる以上のことがありますか?
これ以上がありますでしょうか?
…
「本来の自分」は、追い求めるという方法ではなく、捨てる、放棄する、解放するという方法によって手に入ります。
普通に思いつく方法とは真逆です。
今まで馴染んできたやり方を、180°変えなくてはいけません。
そこがひとつ、チャレンジングな点です。
既知の世界から、未知の世界へと飛び込まなくてはいけません。
180°の転換。
それには、勇気と意志がいります。
そこまでの勇気と意志を発揮するためには、そこまでして真実に生きたいという強烈なモチベーションが必要です。
何となく生きて、何となく終わってくれればそれでいいというぬるい生き方では、とてもそのような力は発揮できません。
「それなりに幸せ、特に大きな問題は無い」というごく一般的な人にとっては、とても難しいことです。
そんな人はそもそも、真実に魅せられるということもないでしょう。
真実に魅せられたあなたには、チャンスがあるということです。
真実を掴む、チャンスがあります。
そのチャンスは、今すぐ、ものにできるのです。
勇気と意志を発揮する時は、「今」なのです。
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