「間違い」なるものはありません。
「合ってる」「間違ってる」という発想自体、そもそも人間の創作です。
動物の世界に、合ってる、間違ってるはありません。
それはもともと存在しないものです。
つまり人間の創作です。
「心地いい」「心地よくない」
これはあります。
これは人間の創作ではなく、「事実」です。
事実として、そこにあります。
なぜだか知らないけど、すでにそこにあります。
これは人間の創作によってどうこうしたものではありません。
どちらが真実であるかと言えば、人間の創作ではなく、もともとあるものが真実です。
ですから生き方として真実なのは、「合ってる間違ってる」に従うのではなく、「感覚」に従うことです。
このことは感覚的にわかると思います。(笑)
…
さて、感覚に従うことには、不安が伴います。
「果たして本当にこれで大丈夫なのだろうか」と。
その声は誰の声でしょうか?
それは「生存本能」や「防衛本能」といった、いわゆる「エゴ」の声です。
エゴとは物質としての人間を存続させるために備わっている機能です。
人は放っておいたら簡単に死んでしまうので、死なないようにあれやこれや手を打たなくてはなりません。
そのための手を打ってくれるのが、エゴです。
エネルギーが切れてきたら空腹信号を出し、車が猛スピードで突進してきたらよける。
身の保全のために上司にゴマをすり、トラブル回避のために、無理な要求を飲む。
エゴの目的は、「個の存続」です。
正しいか正しくないか、気持ちいいかよくないかではなく、「生き延びれるか」や「より自分に有利であるか」といった理由で動きます。
ですから、「エゴ」は「自分勝手」と、よく同義で用いられます。
他人ではなく個を優先する、個を存続させるためなら他のことは知らない、というスタンスだからです。
他人のことを考える場合でも、「そのほうが個にとって有利だから」という打算がそこにはあります。
それに対して「感覚」には、打算がありません。
ただ「そう」であるだけです。
理由もないし、計算もない。それに付随する何物もありません。
ただ純粋に「それ」なだけです。
ラーメンが食べたいとふと思うことに、理由も計算もありません。
ただ単にそう思うだけです。なぜかは知らないけど。
もしこれが自分の感覚に関係なく、「ここはラーメンを食べたいといっておいたほうが有利だろう」みないな打算が働くならば、それはエゴです。
感覚には何も付随しません。
良いもないし悪いもない。
そこがまたエゴを不安にさせます。
「本当にこれでいいの?」と。
…
では、感覚で生きることの意味は何でしょうか。
それは「真実を生きる」ということです。
個の存続が理由ではありません。
エゴに生きる場合、その最大の価値は「個」です。
個が最大の王様であるのが、エゴの特徴です。
小さいです。非常に小さいです。
エゴに生きるとき人は、最大で「個」という、非常に小さな世界を生きることになります。
真実に生きるとき、それは「宇宙」です。
存在の全てです。
宇宙は真実によって成り立っています。
その同じ感覚で生きるとき、人は存在の全てと一体になります。
そのとき個はありません。
個という物質に宿りながら、感覚は宇宙です。
…
昔、線路に落ちた人を助けようと飛び込んだ二人が、列車にはねられて死亡する事故がありました。
エゴで生きていたら、こんなことはありえません。
自分が死ぬかもしれない危険に、何の見返りもなく飛び込むなんて、ありえません。
このふたりは、「とっさに」飛び込んだのです。
考えてなんていません。後先なんてありません。
感覚が二人を突き動かしたのです。
正義感を発揮したわけではありませんし、ヒーローになろうとしたわけでもありません。
「助けたら何かいいことがあるかも」なんて考えたわけでもありません。
宇宙が二人を動かしたのです。
二人は宇宙の意思に従ったまでです。
…
この二人は不幸でしょうか?
幸も不幸もありません。
幸も不幸も人間の創作です。
真実は「ただそうであるだけ」です。
ただそうであるのが真実です。
ではこの場合の真実とは何でしょうか。
この場合の、ただそうであるもの。
それはこの話に触れた時に感じる、熱いものです。
この話を聞いたとき、なぜだか熱い感覚が、胸に湧き起こります。
それは確かに、ありました。
確かに感じられる感覚が、そこにはありました。
見ず知らずの二人が、自らの危険をかえりみずに、人を救おうとした。そして死んだ。
それはただのそれです。
ただのそれに、熱いものがこみ上げる。
なぜ?
なぜかは知りません。
知らないけどそうなるもの。
それが真実です。
すでにそこにあるもの。
そうなってしまうもの。
確実にそうであるもの。
この間違いのなさ、真実味。
この感覚。
それ。
それが真実です。
理由はありません。
しかし、確信があります。
「これだ」という確信があります。
だから真実に生きるのです。
「真実に生きたほうが幸福になれる」とか「より有利に人生が展開する」という理由で、真実に生きるのではありません。
真実に生きるのは、それが真実だからそうするのです。
それ以外の理由はありません。
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