幸せとは何か

幸せとは、全てです。

全てが今すでに、幸せです。

それを察知できるかできないか。

それだけの話です。

全ては今すでに、幸せなのです。

 

それは五感で知覚するものではありません。

五感を消し去ったあとに残るもの、すでにそこにあるもの。

それが幸せです。

ですから、幸せを察知するためには、五感を消し去ればいいのです。

そうすればそれは、すでにそこにあります。

 

「ある」という不思議。

ありとあらゆるものが、すでにある、という不思議。

あることは不思議ではありませんか。

なぜそれはあるのでしょうか。

そこに、そのように。

 

人がいる、モノがある、思いがある。

ありとあらゆるものが、そのように、ある。

そこに通底するものは何でしょうか。

そこに貫徹するもの。

敷衍する「ひとつ」。

 

世界はひとつであるとか、大いなるひとつとか言います。

それは目には見えないし、知覚もできません。

五感では捉えることはできません。

しかし、感じることはできます。

なぜなら我々も、その一部だから。

それ「以外」のものなんて、ないから。

だからこその、「ひとつ」。

全てを貫く要素。

 

五感は「カタチ」を捉えます。

しかしそれは、カタチではありません。

ですから、五感で捉えることはできません。

 

それは欲することはできません。

それは対象ではないから。

すでに持っているものを、欲することはできません。

欲するということは、持っていないから欲することができます。

すでに持っているものを、欲することはできません。

 

すでに持っているものを「確認」することなら、できます。

すでに持っているものを「見る」ことなら、できます。

すでに持っているものを、欲するのではなく、見てみましょう。

すでに持っているものを、見てみてください。

 

驚異であり、当たり前。

感動であり、普通。

 

全てが、ある。

すでに、ある。

その事実を見てみてください。

ただ単に。

 

我々の探しているものは、「当たり前」です。

当たり前の非凡さを察知してください。

 

それはどこにでもある。

それでないものなんて、何もない。

それしかない。

それでしかないもの。

 

単純、シンプル、簡潔、ひとつ。

 

幸せでしかない。

幸せから外れたことなど、一度もない。

それは五感では捉えられない。

五感で捉えるものとは、別ジャンル、別次元。

五感の快不快とは無関係。

五感の快不快をすべて含んだ、それ。

今すでに、それ。

そこから逃れることなど、できない。

幸せからは、逃れられない。

幸せとは全てだから。

快も不快も含んだ、全てだから。

 

みんな今すでに、そこにいます。

察知できようができまいが、そこにいます。

なぜなら全てがそうだから。

 

それは信じることではありません。

それは感じることです。

どうですか? あなたも感じますか、それを。

 

それは信じるものではありません。

信じるものではなく、「見る」ものです。

目に見えないものを、見てください。

目ではなく、感覚で見てください。

 

我々はもはや、何も求めていません。

なぜなら「見て」いるから。

いま現に、それを見ているから。

見ているとき、それはすでにあります。

それはすでに、そこにあります。

欲するという反応が、出て来ようはずがありません。

すでにそうであるものを、欲するはずがありません。

 

全てはひとつです。

欲する対象は、ないのです。

ただ「それ」であるだけです、あなたも私も、全ても。

 

幸せというものは、想像していたものとは大いに違ったかもしれませんが、それがそうなのです。

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