目に見えること、音に聞こえること、手に触れること。
私たちはたくさんの物事に囲まれて生きています。
そして、私たち自身も、物事です。
物理的な身体をまとい、具体的に考え、具体的に行動する、一つの物事であり、出来事です。
具体的な物事。
それだけが目に見え、手で触れられます。
それだけがあるように、見えます。
それらはあるように見えて、無いのです。
それらは「無い」のです。
実際にあるのは、あるような「気」です。
あるのは「気」です。
それらはあるのではなく、ありません。
あるのは「気」です。
「気」は、具体的なものではありません。
浮かんでは消える泡のようなものであり、風が吹いたら霧消する気体のようなものです。
「何が真実だろうか」
常にそんな目で、周りを観察してみましょう。
真実は何でしょうか。
目の前のコップが真実でしょうか。
その色が白だということが、真実でしょうか。
流れる雲が真実でしょうか。
空の青さが真実でしょうか。
真実とは、何でしょうか。
本当のことって、一体何でしょうか。
「本当のこと」をこそ知りたいと思いませんか?
モテる方法でもなく、お金を稼ぐ方法でもなく、本当のこと。
本当のことが知れれば、全て解決すると思いませんか?
本当のことが知れれば、モテる方法も、お金を稼ぐ方法も、全てを包含するのではありませんか?
本当のことって、一体何でしょうか。
本当のこと。
それは「今」であり、今あるもの全てであり、今あるものすべてが「無い」であるということです。
誰が見ても行き着く本当のこと。
それは「今」であり、今あるもの全てであり、今あるものすべてが「無い」であるということです。
「今」だけがある。
これは誰が見てもそうですね。
今ここに、今がある。
それ以外の事実はありません。
今があるだけ。
それだけが事実です。
では「今」とはなんでしょうか。
それは、今ある全てですね。
目に見えること、音に聞こえること、手に触れることといった、感覚。
そして、頭に浮かぶこと、感じることといった、思考や感情。
それらが、今ある。
それだけが事実ですね。
そして、今ある感覚、思考、感情。
それらは永久不変にそこにあり続けるわけではありません。
「今」あるだけです。
今あるものが、今あるように、ある。
それだけが事実ですね。
感覚、思考、感情。
それらは、手で触れられるわけでも、目に見えるわけでもありません。
それらは一種の「概念」であり、具体的には「無い」ものです。
「これが感覚です」「これが思考です」「これが感情です」と、具体的なモノとして提示できないものです。
そんな「何もない」が、「今ある」。
それが、事実を客観的に見た時に、わかることです。
「何もないが今ある」
それがすなわち、事実です。
この事実を目の前にして、どうでしょう。
興ざめにも似た感覚。
「ない」に対して、どんな感想も浮かびません。
「何か」であるなら、何かしらの感想も浮かびます。
しかし、「何もない」に対して、どんな感想も浮かびようがありません。
そんな「何もない」こそが、事実です。
それってすなわち、とても安心ではないですか?
「何もない」わけだから。
何でもないわけです。
「何」でもないわけです。
事実というものは、「何」でもない。
それは至福です。安心です。
具体的な至福や安心ではありません。
大好きな彼の腕に抱かれる至福ではありません。
大金が手に入った安心ではありません。
「何もない」ことの、至福と安心。
これが本当の、至福と安心。
どこにもいくことのない、至福と安心。
もともとあり、どこかへいくこともなく、永遠にある、至福と安心。
それこそが、解決ではないでしょうか。
それこそが、モテや稼ぎを超えた、永遠の解決ではないでしょうか。
すでに答えは用意されているのです。
目の前に明々白々と、あるのです。
ただ見過ごしているだけで、いつもいつでも、そこにあるのです。
たとえ知らなかったとしても、永遠の至福と永遠の安心は、いつもいつでもそこにあるのです。
たとえ知らなかったとしても、いつもいつでも永遠の至福と永遠の安心の中で生きているのです。
たとえ今、不安だったとしても、恐怖におびえていたとしても、それは永遠の至福と永遠の安心の中で行われていることです。
だって、あなたにとって、今、「今」があるでしょう?
そうでなかったことなど、一瞬たりともないでしょう?
いつもいつでも、「今」が、今あるように、あったでしょう?
それが事実です。
それこそが事実です。
あなたがいつも目の前に見ているそれが、永遠の答えです。
それは目を向ければ、いつもいつでも、そこにあるものです。
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