苦しみの実体、そして苦しみからの解放

苦しみとは一体なんでしょうか。

普段はあまり見ないようにしている、なるべく避けようとしているそれを、一度じっくりと見てみましょう。

 

それは「感覚」ですね。

重苦しい感じ、鬱陶しい感じ、もやもやした感じ、重い感じ、いやな感じ。

言葉では限界がありますが、それは確かに感じることができます。

そこに「ある」と感じることができます。

 

さらによく見てみてください。

それは何かの出来事と結びついていますね。

あるいは出来事の不在と。

 

「ひどいことを言われた」「上司が無理難題を押し付ける」「好きな人が振り向いてくれない」「お金を落とした」

「無職だ」「楽しいことが何もない」「友達も恋人もいない」

 

その出来事を否定する気持ち、あるいは出来事の不在を否定する気持ち。

そうです。

すべて「否定」です。

 

「あれはいやだ」「これはいやだ」「納得いかない」「なんで私が!?」

その出来事が、あなたの納得する形、満足できる姿であれば、そこに苦しみはないはずです。

つまり、苦しみとは否定の別名です。

 

 

ではなぜ否定は起こるのでしょうか。

そう、ものごとは全て「起こる」のでしたね。

「する」から「なる」へ

ありのままの事実

 

あなたは別にやりたくて否定しているわけではありません。

否定が勝手に「起こる」のです。

 

では、この否定はコントロール可能なのでしょうか。

どうでしょう、できますか?

この「否定」は、ほとんど反射的に湧き上がってくると思います。

その出来事への「反応」として、ほとんど反射的に湧き上がってきます。

本当にただ起こります。

 

…コントロールは無理じゃないですか?

その否定を肯定に変えようとしても、否定の存在を残したまま、そこに無理矢理肯定を盛るような、いびつで不自然な形でしかできないのではないでしょうか。

結局否定は何も解消されてない、みたいな。

これでいいんだって思い込もうとしても、どこか無理がある、みたいな。

 

できるならそれもいいと思いますが、現実的にかなり難しいと思います。

 

 

ではどうしましょうか。

コントロールはあきらめましょう。

努力や葛藤は、別な苦しみを生むだけです。

 

それよりもやるならば、「見る」ということです。

 

ただ「見る」だけです。

見ることに努力や葛藤は必要ありません。

ただ「見る」だけですから。

 

何を見るのかというと、それがただ単にそうである様を見るだけです。

否定が起こるなら、それをそのまま見ます。

 

ちなみに、苦しみのシステムは以下の通りでしたね。

  1. ある出来事が起こった
  2. それに対して否定が起こった
  3. その否定が苦しみを生んだ

「出来事」→「否定」→「苦しみ」です。

これは起こるんだからしょうがない。

お天気だって雨が降ったり風が吹いたりします。

出来事だって起こるし、否定だって起こるし、苦しみだって起こります。

 

ただ、それに巻き込まれるのではなく、それらと一体化するのではなく、それらを外から「見る」のです。

それがそうである様を見るのです。

「出来事」を、「否定」を、「苦しみ」を。

ただそれをそれとして見るのです。

 

 

それがそうである様を見るということは、「肯定」です。

それが、そうであることを、認識する(認める)。

それはすなわち「肯定」です。

 

というか、そもそも否定など無理なのです。

だって現にそれはそうだから。

現に「それ」は「それ」として、すでに目の前にあるではありませんか。(笑)

否定など最初から不可能なのです。

肯定が本来のあり方です。

引用:変わるものと変わらないもの

 

世界は肯定で出来ています。

否定などしようがないのです。

否定されているならば、はじめから存在していません。

現にそれがそこにあるということは、すでに存在を認められているということです。

あなたの否定的な気持ちすら、現にそこにあるということは、それすら肯定されているということです。(笑)

 

「見る」=「それがそうであることを認識する」ということは、すでに肯定なのです。

それがそのままであることを見る、(=ただ見る、純粋に見る)ということは、すでに肯定です。

見ることによって、本来の世界に戻れるのです。

そして本来の世界は、肯定です。

あなたの否定すらも包含する、大きな大きな肯定です。

 

ですから安心して否定してください。(笑)

すべてはゆるされています。

あなたはいつでも、無条件の愛(全肯定)に包まれています。

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