苦しみとは一体なんでしょうか。
普段はあまり見ないようにしている、なるべく避けようとしているそれを、一度じっくりと見てみましょう。
それは「感覚」ですね。
重苦しい感じ、鬱陶しい感じ、もやもやした感じ、重い感じ、いやな感じ。
言葉では限界がありますが、それは確かに感じることができます。
そこに「ある」と感じることができます。
さらによく見てみてください。
それは何かの出来事と結びついていますね。
あるいは出来事の不在と。
「ひどいことを言われた」「上司が無理難題を押し付ける」「好きな人が振り向いてくれない」「お金を落とした」
「無職だ」「楽しいことが何もない」「友達も恋人もいない」
その出来事を否定する気持ち、あるいは出来事の不在を否定する気持ち。
そうです。
すべて「否定」です。
「あれはいやだ」「これはいやだ」「納得いかない」「なんで私が!?」
その出来事が、あなたの納得する形、満足できる姿であれば、そこに苦しみはないはずです。
つまり、苦しみとは否定の別名です。
…
ではなぜ否定は起こるのでしょうか。
そう、ものごとは全て「起こる」のでしたね。
あなたは別にやりたくて否定しているわけではありません。
否定が勝手に「起こる」のです。
では、この否定はコントロール可能なのでしょうか。
どうでしょう、できますか?
この「否定」は、ほとんど反射的に湧き上がってくると思います。
その出来事への「反応」として、ほとんど反射的に湧き上がってきます。
本当にただ起こります。
…コントロールは無理じゃないですか?
その否定を肯定に変えようとしても、否定の存在を残したまま、そこに無理矢理肯定を盛るような、いびつで不自然な形でしかできないのではないでしょうか。
結局否定は何も解消されてない、みたいな。
これでいいんだって思い込もうとしても、どこか無理がある、みたいな。
できるならそれもいいと思いますが、現実的にかなり難しいと思います。
…
ではどうしましょうか。
コントロールはあきらめましょう。
努力や葛藤は、別な苦しみを生むだけです。
それよりもやるならば、「見る」ということです。
ただ「見る」だけです。
見ることに努力や葛藤は必要ありません。
ただ「見る」だけですから。
何を見るのかというと、それがただ単にそうである様を見るだけです。
否定が起こるなら、それをそのまま見ます。
ちなみに、苦しみのシステムは以下の通りでしたね。
- ある出来事が起こった
- それに対して否定が起こった
- その否定が苦しみを生んだ
「出来事」→「否定」→「苦しみ」です。
これは起こるんだからしょうがない。
お天気だって雨が降ったり風が吹いたりします。
出来事だって起こるし、否定だって起こるし、苦しみだって起こります。
ただ、それに巻き込まれるのではなく、それらと一体化するのではなく、それらを外から「見る」のです。
それがそうである様を見るのです。
「出来事」を、「否定」を、「苦しみ」を。
ただそれをそれとして見るのです。
…
それがそうである様を見るということは、「肯定」です。
それが、そうであることを、認識する(認める)。
それはすなわち「肯定」です。
というか、そもそも否定など無理なのです。
だって現にそれはそうだから。
現に「それ」は「それ」として、すでに目の前にあるではありませんか。(笑)
否定など最初から不可能なのです。
肯定が本来のあり方です。
世界は肯定で出来ています。
否定などしようがないのです。
否定されているならば、はじめから存在していません。
現にそれがそこにあるということは、すでに存在を認められているということです。
あなたの否定的な気持ちすら、現にそこにあるということは、それすら肯定されているということです。(笑)
「見る」=「それがそうであることを認識する」ということは、すでに肯定なのです。
それがそのままであることを見る、(=ただ見る、純粋に見る)ということは、すでに肯定です。
見ることによって、本来の世界に戻れるのです。
そして本来の世界は、肯定です。
あなたの否定すらも包含する、大きな大きな肯定です。
ですから安心して否定してください。(笑)
すべてはゆるされています。
あなたはいつでも、無条件の愛(全肯定)に包まれています。
コメント